捜査共助課3(短編小説)

□無題
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秋葉の意識がここではなく、何処か違う場所へ行ってしまった。
長い沈黙を介し、比呂はそれを肌で感じた。
傷つけに来た訳ではない。
その言葉が、無意識に出てしまったのは何故だったのか。
普段あまり怒りなどの負の感情を露わにしない自分が、どうしてこうも簡単に弟に声を荒らげてしまったのか。
お互いが何も言わない間、比呂はそれを考えていた。
「柊……」
秋葉に対して微かに感じた恐れが、比呂の声音に直に現れる。
窓の外、少しだけ見える空を見ていた秋葉が、その比呂の声で我に返ったように視線を戻した。
「その爪の跡は、どうしたんだ」
恫喝は意味を成さない。
かといって、穏やかに問いかけたとしても、彼が答えるかどうかは分からなかった。
対峙して比呂は初めて気付く。
長い間、自分たちは上辺だけを取り繕う事に必死だったのだ。
貴美を失い、秋葉が記憶を失ってから。
一刻も早く『家族』という形を取り戻したかった。
強固な繋がりや絆の存在を誰にも否定されないように。
何より、内側からその形が崩れてしまわないように。
本当は、秋葉が何を失ったままなのか、それさえも知らないまま。
「ここから、ね……」
秋葉は右手の人差し指の指先で左肩に触れた。
「……このあたりまで」
その指を二の腕から手首の方へと、シャツの上から何かをなぞるように動かす。
「毒が回るんだ……それが少しずつ全身に広がって……自分が自分じゃなくなるような気がする」
身の内に残された毒。
鉛の様な、鈍く濁った感触。
「そもそも意識があってやってる事じゃないから……これ以上はうまく説明できない。こんな話、信じる?」
ゆっくりと瞬きをした後で、秋葉は比呂を見た。
唇には、まるで他人事を語る様な笑みを浮かべ。
「信じるよ。お前の話なら」
比呂の言葉に、秋葉の笑みが深まった。
「柊」
その笑みの中に、一種の嘲りと諦めを見た気がして。
比呂は秋葉を呼ぶ。
「どうして?」
「お前は俺の弟だから」
秋葉の問いに、比呂は迷いなく答えた。
与えられた答えに、秋葉は視線を揺らす。
「……あんた、誰?」
「柊!」
比呂は思わず叫ぶ様に秋葉の名を呼ぶ。
「俺は、家族の事なんか何も思い出してないかも知れないよ?……そんな可能性、ほんの少しも考えた事、ないの?」
もう、秋葉の唇に笑みはない。
「逆に、俺は嘘をついているかも知れないよね?俺に記憶がないって、本当に信じてくれてたの?」
苛立ちを含んでいた目は、今はもう何かに怯えている。
「秋葉、比呂さん?俺は、あなたの妹を殺したんだよ。ずっと続くはずだった平穏な日常を壊したんだよ」
あの時の、貴美の最期の指の跡。
それだけは生々しく、肌と細胞が覚えているというのに。
「壊しておいて、都合よく忘れたんだよ。俺は」
秋葉は比呂の目を見たまま、呟いた。
「俺が憎くないの?あの人が言う通り、俺が死ねば良かったって思わない……?」
「お前いい加減に……っ!!」
比呂はたまらず、秋葉の右手を掴む。
そのあまりの冷たさに、思わずびくりと指先が逃げそうになる。
そして。
掴んだ秋葉の手が、先程よりもひどく震えている事に気付いた。
憎くはないのか、死ねば良かったと思わないのか。
その問いは、真逆の意味を含んでいる。
憎まないで欲しい。
生きる事を許して欲しい、と。
何よりも欲しているその言葉を。
今、それを生きる糧として与えて欲しいのだと、懇願すら出来ずに。
「許してくれ……柊二……俺は……」
比呂は震える声を押し出した。
心を出来る限り遠くへ追いやろうとする秋葉に届く言葉を、探している時間は無かった。
秋葉はそっと腕を自分の方へ引く。
かたん、とテーブルの上からその手が滑り落ちた。
自分を傷つけに来たわけではないと言った比呂を、逆に激しく傷つけてしまう。
「ごめん……比呂兄……ごめん」
「違うんだよ、柊……」
秋葉の呟きに、比呂は首を振る。
「俺はいつも、お前を守れない」
肝心な時に、秋葉の心を守ってやれない。
比呂はいつも、何事かが起きてしまってからその事実を知る。
もしも。
先日の貴美の命日に、比呂があの場にいたとしたら。
誰に止められようと、伯父を自宅から叩き出していただろう。
「本当は…俺が…」
これ程までに、事態がこじれてしまう前に。
いや、もっと遡れば、貴美が死んだあの日に。
比呂は秋葉の心に入ったひび割れに、気付いてやるべきだったのだと思う。
「もっと早く、気付いていれば良かったって……」
本当は何度も言葉にして、秋葉に伝えなければならなかったのだ。
彼がいかに大切な存在であるかという事を。
彼がそれを理解するまで。
「………比呂兄…ごめん…」
掠れた秋葉の声がした。
比呂が迷った様に。
父や母が迷った様に。
秋葉もまた、独り、どうすればいいのか分からなくなっていた。
完全には元に戻るはずのない、家族。
欠けたものは決して、補う事も取り戻す事も出来ない。
ここから新たに創り上げていく事しか、自分達に残された道はない。
「携帯、貸して……柊の、携帯。あと充電器」
「………」
比呂の視線は、窓際のパソコンラックに無造作に置かれている黒色の携帯に向けられている。
秋葉はその視線を追い、僅かに躊躇い、立ち上がる。
冷たく手のひらに収まる、2つ折の携帯。
秋葉はそれと、充電のコードをテーブルの上に置いた。
「これがお前と家族を繋いでる、今、唯一目に見える物だと思うんだよ、柊」
こんな物が繋いでいるのか、と思う。
こんな物でしか繋げないのか、とも思う。
コンセントに充電器のプラグを差し込み、比呂はそれを携帯と繋ぐ。
充電が始まった事を告げる赤いランプが本体に点った。
ぱくり、と開いたその携帯の、電源を比呂はそっと入れる。
起動音が聞こえ、画面が明るくなった。
「頼むから……もう、独りになるのはやめてくれ……」
言葉は、果たして秋葉に届くだろうか。
比呂は祈る様に、そう呟いた。
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