捜査共助課3(短編小説)

□無題
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まだここに居るのか、とも問われず。
もう帰れとも言われず。
比呂は弟の部屋にいる。
秋葉はやはり夜勤で疲れていたのだろう、比呂をそのままにして寝室で眠ってしまった。
『スイッチが切れた』という状態だ。
残業が続こうが、とりあえずは規則的に生活できている自分とは違いすぎる、と比呂は思う。
秋葉にとっては、これが規則的な生活なのかも知れないが。
正午を過ぎたので、比呂は秋葉を起こさないように、静かに鍵をかけて部屋を出る。
(少しは、気を許してくれてるのかな……)
近くにあるコンビニまで歩きながら、比呂はそんな事を考えた。
午前中は晴天だったのに、今は青空が見えない。
天気予報どおり、夜には雨が降り始めるかも知れない。
背後から、サイレンが聞こえる。
振り向くと、一台の黒い覆面車が走っていく。
(家族は心配だろうな……)
彼らの所属が何処なのかは分からないが、全く危険のない仕事ではないだろう。
秋葉がこんな仕事に就くまで。
いや、実際に命の危険に晒されたのを目の当たりにするまで。
比呂にとって他人事だった、このサイレンの音。
いくら無事であるようにと願っていても、黄色いテープの向こう側には入れない。
明確に区切られた世界で、離れた場所から祈る事しか出来ない。
生きようとする気力も、願いすらも失いかけている弟のために。
コンビニで2人分の軽食を買い、比呂は再び来た道を戻る。
秋葉は自分の部屋に何もない、と言っていたが、それは見事に言葉通りだった。
彼の仕事は全てが予定は未定で、結局賞味期限の短いものは買い置きしていても無駄になるという事だろうか。
(でも、何食って生きてんだろ、あいつ……)
比呂は思わず、そう首を傾げてしまう。
比呂自身も、余程切羽詰った状態でなければ、コンビニで売られている食料は口にしない。
秋葉が目覚めた時に、いや、そもそもいつ眠りから覚めるのかも分からないが、果たしてこれを差し出したとしても食べるかどうかは分からなかった。
本当は、明日が休みだという秋葉を、実家へ連れて行こうかとも思っていたのだが。
もう少し時間をかけて、2人で話したいという思いもあり、それを比呂は迷っている。
答えが出ないまま、気付けば部屋の前まで戻ってしまい。
比呂は出てきた時と同じように、静かに鍵と扉を開けた。
比呂も家族とマンション暮らしをしている。
週に一度は、近い事もあり、実家へも顔を出す。
余程残業で遅くならなければ、家族と食事も取れる。
常に人の気配がする場所へ、帰る事が出来るのだ。
秋葉が記憶を失った時。
家族の間では、仕事を辞めさせるか、続けるのであればここを引き上げて実家に戻るかの選択肢が話し合われていた。
本音を言えば、あの時、家族の誰もが秋葉をもう2度と刑事という仕事に戻らせたくなかった。
しかし、秋葉はそのどちらの選択肢も選ばなかった。
仕事は続けたし、今もこの場所で、独りで暮らしている。
彼にとって、家族にとって、どちらが幸せだっただろう。
これは最良の道だったのだろうか。
薄暗い玄関と廊下で、そんな事を考える。
コンビニの袋をキッチンのテーブルに置いてから、比呂はそっと寝室を覗いた。
秋葉は身体を出来る限り丸めて眠っている。
まるで猫だ。
何事か、不安な事を抱えている人間は、眠る時に身体を丸めると何処かで聞いた覚えがある。
「お前、寝てる時まで眉間にシワが入ってるんだ……」
秋葉の寝顔を見て、くすりと比呂は笑った。
笑ってはみたものの、彼の眠りが安らぎとは程遠い気がして。
比呂はそっと手を伸ばし、毛布から出ている秋葉の右肩を撫でる。
「…………」
先刻彼は、左肩から毒が回ると言ってはいなかったか。
ふと気にかかり、比呂は毛布をもう少し捲ってみる。
「柊……」
あの爪の跡がどうやって付けられたものなのか。
比呂はそれを見た。
身体を出来る限り丸め、秋葉の右手は左腕を掴んでいる。
シャツ越しに食い込む指先を、比呂はひとつひとつ、丁寧に解いた。
関節が滑らかに動かなくなるほど、力が入ってしまっている。
油の切れた機械のようにぎこちなく、手のひらが開かれた。
白く、血の気を失った冷たい指。
「…………」
貴美の遺体に触れた時の事を思い出し、比呂は知らず唇を噛んだ。
「どうせスイッチを切るなら……夢も見ずに眠れよ、馬鹿」
眠りが浅いはずの秋葉が、比呂が触れても目を覚まさない。
それ程深く眠っているはずなのに、寝顔は苦痛を含んでいる。
比呂は、娘の唯が恐い夢を見てうなされている顔を思い出す。
その時にするように、比呂は秋葉の右手に柔らかな毛布の端を握らせた。
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