捜査共助課3(短編小説)

□幸福の定義
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いつもの店に入ると、やはり自分よりも早く秋葉はカウンターに座っていた。
いつもの様に、雑誌を広げている。
店内には、自分達意外にまだ客はいない。
その事に、僅かにほっとして、崎田は秋葉の隣の椅子を引いた。
「お久しぶりです」
店主にそう言うと、無愛想な彼はそれでもにこりと笑んでくれた。
「あれ?奥さんは?」
「………そこ」
カウンター近くの床を、秋葉が指した。
そこに大型の収納スペースがあるのだ。
「あら。いらっしゃい」
ぬうっとそこから顔を出し、彼女もまた笑ってくれる。
もちろんここにいるのは家族ではない、だが、気を張らなくてもいい。
そんな不思議な店だった。
肩の力が自然と抜けていく。
ようやく崎田は息を吐いた。
「お前、先月誕生日だっただろ……一緒に飲みたいなって思ってたんだけど、忙しくて……ごめん」
ぱたん、と雑誌を閉じ、秋葉は立ち上がる。
テーブル席の横にある本棚に、それを返しに行くのだ。
ほんの数歩で足りる、狭い店。
秋葉は4歩でその場に行き、また4歩で帰ってくる。
次の雑誌を手にしていない、という事は、今日は本腰を入れて話をしようと言う事だ。
そう勝手に思いながら、崎田は笑った。
「年とっても、何も変わんないな…忙しいだけで」
誕生日の前日と、当日で。
明らかにひとつ年を取るのだが。
一体何が変わるのだろう。
ただ、日常に追い回され、振り回されているだけだ。
少々自虐的な思考に陥りながら、崎田はメニューを開く。
「もしかして奢ってくれるの?」
「………そのつもりだけど」
冗談で問いかけたのだが、秋葉は至極真面目に答えてくる。
「嘘?」
「何で嘘をつく必要が?」
「やった。何食おう」
この店は、何に一番力を入れているのかよく分からない店だ。
一番のこだわりは、店内に流れるジャズなのだろうが。
ラックに並ぶCDやレコードは、数百枚はあるだろう。
後はパスタとピザ、酒。
そして何故かラーメンやカレーなども言えば作ってくれる店だ。
敷居は決して高くない。
ただ、常連になれるかどうかは店主夫婦との相性にかかっている。
「俺、久しぶりにピザ食いたい」
「あ、俺も」
秋葉の呟きに、崎田も頷く。
2人でひとつのメニューを覗き込み、あれこれとオーダーをする。
何品か頼み終えると、店主は丸刈り頭にねじり鉢巻という、およそこの店にはそぐわない格好で準備を始めた。
何しろひとりで料理を作っているのだ。
店内が混みあう時は大変だった。
「何か……俺にしなきゃいけない話があるだろ」
アイスピックで砕いた氷が入ったグラスで水を一口飲み、秋葉は試すように崎田を見る。
「ああ……」
いつも。
面倒な話題は秋葉が最初に話し始めるきっかけを作ってくれる。
その事を申し訳なく思いながら、崎田も話を始めるために喉を潤した。
「担当、外された」
その言葉を発するのに、随分と時間がかかってしまったのだが。
「知ってる。新しい検事が俺のとこにも来たよ」
事も無げに、秋葉は呟いた。
「いつ」
「………今日。仕事上がった時に」
それでは、自分に告げられる以前に、彼は動き始めていたのだ。
そう思うと、余計に腹立たしい。
自分では否定したかったが、仕事を横取りされた事が悔しいのかも知れない。
最後まで関わりたかった事案だった。
それにもう関われない事が、悔しい。
そして。
「すまない……」
結局、口から出たのはそんな言葉で。
それを聞いた秋葉は、少し首を傾げた。
「もう、いいんじゃないか」
検事は常に被害者の側に立つ。
少なくとも、崎田はそうやって仕事をしてきたつもりだ。
「よく、ない」
崎田の言葉に、秋葉は笑んだようだった。
「俺は……お前が担当検事で本当に良かったと思ってる。今でも」
崎田は、どうしてもあの悪魔を二度と外に出したくなかったのだ。
その為に、弁護団に付け入る隙を与えない証拠固めをしてきた。
事件に関わった当事者で、唯一生き残った秋葉に証言を求めたのも崎田だ。
「もう、俺も。これからは、ただ結果を見届けるだけだ」
「…………」
秋葉は数回、法廷で証言をした。
実際に崎田と、拘置所へ相模に面会をしに行った事もある。
「それでお前は納得できるのか」
馬鹿な問いをした、と我ながら崎田は思った。
被害者が納得できる刑罰など、下った例がないからだ。
「どうにか納得しようと思う。もう、俺は先へ歩かなきゃいけないと思い始めたんだ」
グラスについた水滴が、静かに流れ落ち、布製のコースターを濡らした。
それを目で追い、秋葉は穏やかに言う。
「世間は皆、事件の事なんか忘れる。このままじゃ俺はずっと立ち止まったままだなって思って」
秋葉は冷たいグラスに手を伸ばし、揺らす。
氷がからからと音を立てた。
そして秋葉は、しばらく会わなかった間に起きていた出来事を話し始めた。
彼の両親が犯罪被害者の会に顔を出し始めた事。
その会合に、相模の事件で娘を失った母親が姿を現した事。
身に起きた出来事は違っても、苦痛を分かち合う場所があり、そこで少しずつ癒されていく傷が確かにある事。
「……俺の母親が、誰かに言われたんだって」
突然の奇禍で愛する家族を失っても。
そこで自分達の命が終わるわけではない。
だが、生きている間、決してこの苦痛は終わらない。
周りは自分達をどんどん忘れていく。
もう2度と幸福に触れる事はないと、己を呪い、被疑者を呪う。
そうして本当は身近にある些細な幸福までも、気付かずに逃してしまうのだ。
「それで、ふと気付いたって…言うんだ」
悲しみに埋もれ、怨嗟で心を満たし。
そうするうちに、心が急速に鈍磨していく。
「やっぱり、許せない事はたくさんあるって。後悔も。でも……昨日と今日に何の違いもなくても。呼吸が続く限りは生きていなきゃいけないって」
いずれ、息絶える日が来る。
それは命在るものに平等に与えられた終わり。
「俺もそれで少し考えたんだ。俺が生きてることにも、自分が思うよりももっと意味があるのかなって…。些細な日常があるって事は、本当はすごく幸せな事なんだろうなって」
「………うん」
穏やかな言葉に、崎田は頷いた。
「だから……お前も。もう無理しなくていいと思う。あいつに関わってから……随分痩せたみたいだし?」
確かに。
この2年で体重はかなり落ちたと崎田は思う。
まあ、秋葉よりもマシだろうが。
「俺やお前が、ひとりで戦ったわけじゃない。これからもね」
相模と対峙していると、少しずつ人の心を失いそうになっていく。
何が正しいのか、何が間違っているのか。
判断力が鈍っていくのだ。
完全に闇に飲まれてしまう前に。
秋葉はそう言いたいのかも知れない。
「あ、ごめん。忘れてた。ビール……」
ふと店主が呟き。
ドイツビールを2つのグラスに注いでくれる。
ある程度難しい話が終わるタイミングを見計らっていたのだろう。
その気遣いはプロだ。
「ああああ……こういうの、幸せだって忘れてたかも」
かつん、と秋葉とグラスを合わせ、崎田は冷えたビールを一口飲んだ。
「ほんっと、些細なのな、俺たちの幸せって」
秋葉もくすりと笑う。
「でも、明日……また上司に直談判するんだろ?俺にやらせろって」
「もちろん」
先程までの意気消沈したものとは一転して、当然だ、と言いたげな崎田の声に。
秋葉は安堵したように微笑んだ。
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