第4取調室

□痛み
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痛みを知るということ

本当は

それはすごく大切なこと



彼は『痛み』を知らない。
それは彼が、自分自身を護るために自分の中から追い出した感覚。
己の身体を傷つけても、『痛み』が分からないと彼は笑った。
本当は。
ずっと痛かったはずなのに。


「あ………っ」
かしゃん、と甲高い音と彼の声がキッチンから聞こえた。
隣室で本を読んでいた梶原は、立ち上がる。
「黒ちゃん?」
キッチンに向かうと、彼は床にしゃがみ込んで割れたグラスの破片に手を伸ばしていた。
秋葉も彼も、あまり大きな物音が好きではない。
特にこういうガラス製品が割れる音。
時折こんな些細な音に、秋葉は発作を誘発される時がある。
「どうしよ、割っちゃった……これ、柊二が大事にしてた……」
一度、不安げに梶原を見上げ、彼は呟いた。
そしてまた、破片に指先を伸ばそうとする。
「………っ」
梶原がそれを止める間もなく。
彼の右手の指先は、鋭い破片でふつりと切れた。
「黒ちゃん」
梶原は破片を踏まないように彼に近付くと、その手を取る。
つう、と赤い血が流れ落ちた。
テーブルの上にあったティッシュを取り、梶原はその傷口を塞ぐ。
「こっち、おいで。片付けはまた後で出来るから」
ゆっくりと彼を立ち上がらせると、梶原は隣室へ彼を連れて行く。
クッションの上に座らせて、一度傷口の様子を見た。
少し深い傷のようだ。
「このまま上から、ぎゅって握ってて。救急箱取って来るから」
梶原は、彼の左手で右手の指先を包ませる。
「どうしよう、どうしよう……柊二、怒る?」
「大丈夫、そんな事で怒らないよ。秋葉さんは」
自分の傷よりも、彼は秋葉の事を気にかける。
今までにはなかったその様子に、梶原は彼を安心させるように笑うと、戸棚を開けた。
彼と過ごしていると、何かと生傷が絶えない。
主に怪我をするのは彼だったが。
消毒液とガーゼ、絆創膏と包帯は、常備しておかなければならない。
「…やだ…っ」
ティッシュを外し、脱脂綿に含ませた消毒液で傷口を拭うと、彼がそう声を上げた。
顔をしかめ、目に涙を浮かべている。
「どうしたの、黒ちゃん」
梶原は驚いて手を止める。
「何、これ…、何…?わかんない……っ」
彼は梶原に掴まれている手を振り解いた。
新たな血液が指先に滲んでくる。
「黒ちゃん」
梶原は、そっと彼の手首を握った。
「やだ……っ!!」
突然彼が起したパニック状態に、梶原はひとつだけ心当たりがあった。
彼はまだ逃げようとして、両足で床を蹴る。
梶原は彼を捕まえると、その黒い髪を出来る限り優しく撫でた。
「黒ちゃん、それはね?」
目を合わせると、大きな黒い瞳が涙で濡れている。
ようやく梶原の姿を捉え、おとなしくなった彼の手を引き寄せ、梶原は手当てを再開する。
「今、黒ちゃんが感じたのが、痛み……っていう事」
「い、た、み……?」
「そう。痛み」
瞬きをした彼の目から、涙が零れた。
彼が痛みを感じない体質でも、怪我をすれば血は流れる。
それをどんな気持ちで今まで見つめていたのか、それは梶原には想像もつかない。
「痛いとか、恐いとか、ね。そういうのはとても大切な事なんだ」
そういえば秋葉も、恐怖に関してひどく鈍い時期があった。
精神的に傷ついてしまうと、何かを鈍くしなければ生きていけないという事なのだろうか。
生存していく為に、自分を護る為に、それはとても大切で必要な事なのに。
「痛い……」
子供のように頼りなく、彼は呟く。
「そうだね、痛いよね」
梶原は大きめの絆創膏で、彼の傷口を覆う。
「痛い……」
梶原の手に縋り、彼は何度もそう繰り返した。
まるで、初めて知った言葉を覚えるように。
「ちょっとずつ、覚えていこうね」
こうしてひとつひとつ。
彼と世界を新しく体験するのも不思議な気分だ。
「後で秋葉さんに会ったら、ちゃんと謝ってね」
「うん……」
彼はこくりと頷く。
「じゃあ、一緒に片付けして、出掛けようか」
「うん……」
痛いの痛いの、飛んでいけ。
梶原は笑い、彼の頭を撫でた。

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