第4取調室

□きれいなもの
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『きれいなもの』


きれいなものを

君に見せたいと思ったんだ

あたたかいものに

触れてみてほしいと思ったんだ

今までずっと

そんな世界を知らずにいた君に




仕事と通勤以外で、彼が外に出る事はそういえば無かったかも知れない。
梶原は無意識に彼を外に出さないようにしていた自分に、ふと気付く。
彼は初夏の日差しの中、まるで生まれて初めて外に出た猫のように目を丸くしている。
自分の内側へと入り込む秋葉とは対照的に、彼の意識は外へと向かう。
雨上がりの清浄な空気を肺に吸い込み、彼は大きく伸びをした。
なるべく休日も、部屋の中で過ごしてきた彼を。
何故外に連れ出そうと思ったのか。
それには理由があった。
『今度……黒、に……』
秋葉はもう1人の自分の存在を、何と呼べばいいのか長い時間迷い。
彼をそう呼んだ。
彼は梶原がつけた『黒』という名前をいたく気に入っていて。
『秋葉柊二』ではなく、『黒』として扱われる事を望む。
『黒』が表に現れている間、以前は秋葉の意識は深い眠りについていて、全く彼が何をしているのか分からない状態だった。
それが、今では少しずつこの2人は……敢えて梶原は彼らを別の固体として認識している……内側で会話をしているらしい。
秋葉というひとつの人格の中で、『黒』と主人格である『白』、もしくは『柊二』がどんなやりとりをしているのかは、梶原には知る術がないのだが。
『黒に……綺麗なものを、見せてやって欲しいんだ』
先日、公園に行った帰り。
秋葉はそう呟いた。
『俺の目を通して、じゃなくて。黒の目で見て欲しいんだ……』
受け入れ難かった、もう1人の自分。
それを秋葉もいつしか受け入れている。
『今まで俺が、ずっと暗い場所に閉じ込めて、嫌なものばかり押し付けてきたから』
秋葉は生きるために、もうひとつの人格を創り出し。
それに苦痛を背負わせる事で、辛うじて生きてきた。
その為に、『黒』は痛みを知らない、感じない体質を持っている。
『もう、閉じ込めなくていいから……俺は黒が表にいる間、あまり意識ははっきりしてないんだけど……あいつ、ちゃんと話してくれるから』
苦笑して秋葉は梶原に言う。
『俺はお前に救われたから……』
閉ざした心に、温かい命を吹き込んでくれた。
色を失った世界に、もう一度色彩をくれた。
『お前も……黒の方が、素直でかわいいんだろ?』
最後は少し、悪戯っぽく拗ねて。
秋葉は笑った。



「ねえ、梶原!!これ、何?」
声音ははしゃいでいるのだが、声は小さい。
先日秋葉と一緒に訪れた公園に着き、梶原は彼を藤棚の下へと連れて行った。
「すごい、甘いにおいがする!!」
手を伸ばしても、高すぎて花には届かない。
彼はそれでも精一杯、紫の房に指先を触れさせようと右手を伸ばす。
風が吹くたびに、心の中が解けるような芳香がして。
驚く程彼の表情が柔らかくなる。
それを見つめながら、梶原は笑った。
彼は、まるで子供のようだ。
外見は秋葉のままなのだから、それはひどく違和感のある現実ではあった。
彼は秋葉であり、秋葉ではない。
「………これは、藤の花だよ」
「……藤?」
秋葉にはある知識が、彼には欠落している場合が多々ある。
今もそうだ。
これは、花。
この花は、紫色。
甘いにおいがする。
彼の知識はそこで止まっている。
「そう、藤の花。本当はいつも5月に入ったら満開になるんだけど。今年はちょっと早いみたいだね」
「ふうん……」
きょとん、と藤棚を見上げるその横顔。
ジャンプして花に触れてみようか、どうしようかと迷っている。
「いいよ?黒ちゃん。今なら誰も見てないから」
くすり、と梶原は笑う。
自分は異質なものだという思いが、彼にはあるのだ。
「ほんと?」
彼は嬉しそうに笑う。
「でも、触るだけだよ?落としちゃ駄目」
「うん」
秋葉には無い、秋葉からは失われているその表情。
いつか再び、秋葉もこんな笑顔を見せてくれる日が来るだろうか。
混沌としているだろう、秋葉の心。
秋葉が見ている世界。
しなやかに飛びあがる彼を見つめ、梶原はふと切なさを抱く。
彼の指先が僅かに触れ、紫の花が揺れた。

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