第4取調室

□爪きり
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ぱちん、ぱちん、と。
爪を切る音が聞こえる。
梶原に右手を預け、彼は座っている。
風呂上りの、柔らかい爪が切られていく。
「ねえ…爪くらい、自分で切れる……」
一応、子供じゃないんだし。
そう言いたげに梶原を見て、彼、黒は呟いた。
「うん。それは分かっているんだけど、ね」
答える間も梶原は彼の爪を切る手を止めない。
「動いちゃ駄目だよ、黒ちゃん」
「ねえ、自分でやるから……」
居心地が悪そうに、彼は顔をしかめた。
「もうちょっと我慢して」
もしかしたら、猫が爪を切られる時はこんな気分なのかも知れない。
梶原は彼の顔を見て、くすりと笑った。
「だって……」
「黒ちゃんが切ると、深爪になっちゃうし。秋葉さんが切ると少し尖っちゃうからね……」
どちらも秋葉にとっては危険で痛い。
「ほら。腕にたくさん傷があるでしょう?ちゃんと切らないと、また傷が増えちゃう。これから半袖になるし、困るでしょ?」
秋葉は今も、眠っている間に自分を傷つける。
そして秋葉に代わって彼が起きている間は、絶対に刃物等に近づけてはいけない。
梶原にとって『彼ら』との生活は、なかなか気が抜けない日々だ。
別にそれを苦とも思わないからいいのだが。
「う……ゃああああっ」
爪を切り終え、仕上げにヤスリをかける。
ざりざりとした感触に、彼はびっしりと鳥肌を立てて悲鳴を上げた。
「やだっやだやだやだ……っ!!梶原…っ!!」
じたばたと暴れて腕を引こうとする彼を捕まえ、梶原は丁寧にヤスリをかける。
「………はい、おしまい」
ふう、と指先に息を吹きかけ、梶原は彼の手を離す。
「……ヘンタイっヘンタイヘンタイっ!!」
ぽかぽかと梶原を叩く彼は涙目だ。
「黒ちゃん。一度ちゃんと言おうと思ったんだけど!ヘンタイって言うのはこういう時に使う言葉じゃないの!!」
振り上げられた彼の手を再び捕らえ、梶原は顔をしかめる。
「じゃ、どんな時に使うの?」
「………う…」
返答に詰まる梶原を見て、彼はにんまりと笑った。
「教えてくれないなら、柊二に聞いてもいい?」
「……秋葉さんも教えてくれないと思うよ」
「ええええええ!?何で何で?どうして?」
楽しそうに笑う彼は無邪気だ。
その表情を複雑な心境で眺めながら、梶原は会話の方向を転換させるために壁の時計を見た。
「黒ちゃん。もう寝る時間です」
「眠くないもん」
時刻は23時。
明日は久しぶりの休みだ。
「眠くないって言うか…寝ちゃったら…今度いつお前と遊べるかわかんないのに」
彼は、綺麗に削られた爪を見つめ、本音を漏らす。
確かに。
今日一日、仕事をしたのは秋葉で。
帰宅して夕食の準備をしている間に彼が現れ。
このまま彼が眠れば、次に目覚めるのは秋葉か彼かは分からない。
人格の入れ替わりは常に不規則だ。
主人格である秋葉が許可するか、余程秋葉が現実から逃避したい出来事を抱えている時。
彼が現れる。
「最近仕事にも行ってないし……仕事しないとお小遣いもらえないし……」
ぶつぶつと彼は呟く。
そう、最初は梶原があのがま口の財布に、彼がお菓子を買うお金を入れてやっていたのだが。
それを知った秋葉が、今は自分でそれをしている。
2人の間で何らかの取り決めが交わされているのだろう。
例えば、仕事に行ったら千円とか。
半日入れ替わったら5百円、とか。
どちらにしろ、彼は主人格ではないので、彼にとっては恐らく不利な取り決めに違いないが。
「お菓子も食べすぎたら、柊二が怒るしさ……」
「それは、秋葉さんが……うーん……」
秋葉は甘い物が苦手だし、食事もシンプルな物が好きだ。
量もあまり摂らない。
しかし、彼には年相応の食欲もある。
人格は違えど、身体はひとつな訳だから……。
「秋葉さん、疲れてるんだよ多分」
あれこれと、彼に分かりやすい言葉を探してみたが見つからず、結局梶原はそんな言葉で彼を納得させた。
「じゃ、さ。眠くなるまであそぼ?」
「………しりとりでもする?」
「……………」
彼は上目遣いに梶原を睨む。
「どうぞ?黒ちゃんから」
その物言いたげな視線に気付かないフリをして、梶原は彼を促した。



数分後。
すっかり眠ってしまった彼をベッドに運ぶと、梶原は一息つく。
『しーりーとーり……、リス』
『スイカ』
『カラス』
『スリ』
『リノリウム』
『リノリウムなんて何処で覚えたの…無期懲役』
『キリギリス』
『巣箱』
『こ……コアラ』
『ラッコ』
『こ………こ…』
実は彼はしりとりに弱い。
眠る前にしりとりを仕向ければ、簡単にころりと眠ってくれるのだ。
あどけない寝顔を見つめ、梶原は彼の頭を撫でた。
「ごめんね、黒ちゃん」
そして、梶原は自傷防止用のコットンの手袋を彼の両手にそっとはめる。
簡単に外れないように、手首の部分でゴム製のベルトを止めた。
これをつけるのは今日が初めてなので、彼を起さないように細心の注意を払う。
気休めだとしても、この手袋をつけた方がいいと思える程。
秋葉は眠っている間に自分の身を引き裂こうとする。
もちろん引き裂けるわけはないのだが。
比喩としてはそれが一番妥当だ。
彼には直接関係のない事なのだが。
もしも眠った後で秋葉の意識が浮上したら、また腕の傷が増えてしまう。
梶原が就寝の支度をして隣にもぐりこんでも、青い手袋をつけた彼は目を覚ます事もない。
(秋葉さんも、これくらい眠ってくれたらなあ……)
そんな事を思いながら、梶原は目を閉じた。



夜中。
梶原は隣で動く気配を感じ、ぱちりと目を覚ました。
「…………?」
音の出所は、彼だ。
薄暗い部屋で目を凝らすと、彼は梶原がつけた手袋を噛んでいる。
気持ちが悪いのだろう、何とかそれを外そうとしているらしい。
目を閉じたまま眉根を寄せ、不快そうに手袋をがじがじと噛んでいるのだ。
「やっぱ、駄目かなあ……」
梶原は溜息を吐き、彼の手を取った。
意外に強い力で、彼はそれに抗う。
尚も手袋に歯を立てようとする彼の背を撫でては見たが、彼は嫌がって梶原の足を蹴る。
「駄目か……」
苦笑し、梶原はまず左手から手袋を外す。
「ん………」
少し汗ばんだ手を撫でてやると、彼の表情が僅かに和らいだ。
「右手だけでもと思うんだけど…やっぱ無理だよね…」
爪も切ったばかりだし、恐らく今夜は大丈夫だろう。
そう思い直し、梶原は右手の手袋も外してやる。
「ごめんね、黒ちゃん」
梶原は呟くと、彼の右手をしっかりと握る。
彼は、嬉しそうに笑みを浮かべた。



翌朝。
携帯電話が鳴っている音で梶原は目覚めた。
眠い目をこすりながら携帯を引っ張ると、梶原はそれを開く。
「ん、だよ……」
表示されているのは、姉の依子の名前だった。
どうせロクな用ではない。
そんな予感に、通話キーを押して携帯を耳に当てる。
「あ、ヒデくん?おはよう!!」
「……何、ねーちゃん……」
イマイチ意識がはっきりしないまま、依子の相手をするのは危険だ。
それは重々分かっていたのだが。
「この前作ってあげた、あれ。あの手袋!!何に使うのか聞いてなかった!!あんた、何か怪しい事に使うんじゃないでしょうね!?監禁拘束とか!!」
「………バイバイねーちゃん」
携帯の向こうで依子が何事か叫んでいたが、梶原は携帯を切ってしまう。
「…………」
隣ではすやすやと秋葉が眠っている。
いや、こんな携帯の音でも起きないという事は、秋葉ではあり得ない。
梶原はぱたりと枕に顔を伏せる。
姉からの電話を途中で切ってしまった事を後悔するのは、まだ少し後の話だ。
姉が意外に裁縫が得意という事も、また別の話。

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