第4取調室

□2つの願い
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人は
貪欲だから


1つしか叶わない願い事を
時々、2つ心に抱いてしまう


希望や期待を忘れた心

それでもまだ
何を願う?



「今日、どうする?」
珍しく秋葉が、梶原に問う。
目は合わせる事がない、護国寺のホーム。
普段ならば秋葉は、梶原が部屋に来るか来ないか、そんな事は別に気にしていない。
例え、側に居て欲しいと切実に思う日でも。
それを決めるのは梶原だと思っている。
梶原は梶原で、今日は秋葉の部屋に行けないという事を、何となく昨日から言いそびれてしまっていた。
特に後ろめたい事があるわけでもないのだが。
「あ、今日は……ちょっと……」
梶原は言葉を濁す。
「……ルーズリーフ君?」
ほんの数秒の沈黙の後。
秋葉は笑った。
「あ……はい……」
梶原は、4月に少年課に配属された宮本に慕われている。
何かと梶原が彼の相談に乗っている事を秋葉も知っていた。
「秋葉さん、明日は?」
目の前に滑り込んできた、地下鉄の車両のドアが開く。
「あ。ごめん、忘れ物した。戻らなきゃ。……明日?行けたら病院いくから多分いない」
車両の方へ踏み出した梶原を見送る形で、秋葉はそう言った。
「秋葉さん」
「早く行けよ。お疲れ」
振り向いた梶原に、僅かに笑んで、秋葉は踵を返した。
ホームを離れていく電車の加速音を聞きながら、秋葉は溜息をつく。
我ながら、下手な嘘を吐いてしまった。
もちろん、職場に忘れた物など無い。
秋葉は自分自身を嘲笑う。
決して梶原を束縛したい訳でもない。
独占欲という感覚はとうに何処かに置いてきた。
ただ、梶原が疲れているのではないかと思うのだ。
自分の側に居る事で、確実に彼の行動は制限されている。
『俺がそうしたいから、ここに居るだけですよ?』
梶原はいつも、そう言って笑ってくれる。
それに甘えすぎてはいけない。
ルーズリーフこと、宮本が何かと敵対心を持っている事は分かっていた。
それこそあからさまなそれは、今自分が梶原に吐いた嘘と同じくらい分かり易い。
秋葉も以前は、無心の信頼を向ける相手がいた。
もしも、宮本にとって梶原がそうなのだとしたら。
それを自分が奪うわけにはいかない。
この仕事をしていて、信頼できる同僚や先輩を持つという事は簡単なようで実は難しい。
宮本は、警察官になったきっかけを与えたのは梶原だという。
ならば、なおさら。
「…………ばーか…」
とん、と壁に背中をつけ、秋葉は呟く。
電車を数本やり過ごし、梶原が充分何処か遠くへ行ったと思われる程の時間を潰す。
行きかう無数の人間。
ドアへと吸い込まれ、そして吐き出され。
そのひとりひとりにどんな人生があるのだろう。
そんな事を思いながら、秋葉はぼんやりと、人の流れを見ていた。



ひやりと暗い、自分の部屋。
四角い箱の中。
独りにはなれているはずだった。
だがいつの頃からか、この冷たさを恐いと思い始めた。
秋葉は無造作に荷物を置き、着替えを済ませる。
手を洗う事とうがいをする事を思い出して洗面所に向かった。
鏡の中の自分と、目が合う。


―なんで、言わないの?言えばいいのに
何処からか。
そんな声がした。
それがもうひとりの自分の声であることに気付くまでに、さほど時間はかからなかった。
秋葉が自分の中に閉じ込めていた、もうひとつの人格。
彼はひどく素直で。
秋葉が少しでも気を緩めれば、言いたい放題話しかけてくる。
秋葉はふい、と鏡から目を逸らす。

―ほら、また。柊二はすぐ逃げる。

「何が言いたい。俺が、何を言わないって……?」
普段は心の内だけで会話が出来るのだが。
今は誰もいないし、秋葉はひどく疲れていた。
つい、彼への問いを実際の声に出してしまう。

―梶原に!言えばいいのに。梶原だって、待ってるのに。

「うるさい」
秋葉は手に残っていた水滴を鏡に散らせた。
それはまるで涙のように滴っていく。
それを見るのが嫌で、秋葉は洗面所を出た。
寝室に向かい、ベッドに身体を投げ出す。

―なんでさあ、柊二って俺にまでそういうポーズつけようとすんの?

「………別に?」
これは、ポーズではない。
少なくとも秋葉はそう思っている。

―うっわ〜!!、超ムカつく〜!!

「うるさい!超とか言うな、馬鹿黒!!」
外部から耳に聞こえてくる言葉ならば、耳を塞いでしまえばいい。
だが、彼の声は自分の内側から響いてくるので逃れようがないのだ。
彼はまだ、何かあれこれと騒いでいる。
秋葉には、それにいちいち反応する体力がもう無い。
彼と会話をするだけで、ひどく消耗してしまう。

―じゃあ、俺が言う。

「余計な事すんな、馬鹿。梶原にも梶原の都合があるんだ」
秋葉は頭痛を抑えるように、シーツに額を押し付ける。

―痛い?

彼が、少し声のトーンを低くする。
何処か秋葉の身を案じているような口調だった。
「ごめん、これ以上……話したくない…」
一秒ごとに、頭痛がひどくなる。
秋葉は彼にそう呟いた。

―……ば、いいのに……。

彼が返した呟きは、よく聞き取れなかった。




しばらくぼんやりとしていたらしい。
何処かで携帯が鳴っている音が聞こえ、秋葉ははっとして起き上がる。
呼び出しのパターン音を聞き分けるまでもなく、それは仕事用の携帯の呼び出し音だ。
私用の携帯は、電源を切ったまま放置してある。
もう、そちらは解約してもいいかも知れない。
そんな事を思いながら、秋葉は何処に携帯を置いていたのかを思い出そうとした。
帰宅した時に放り投げたままの鞄の中。
そこから秋葉は携帯を取り出す。
表示された名前を見て、少しだけ気が重くなる。
「………はい」
「あ。秋葉さん?梶原です」
彼の名を見て声を聞いて、気が重くなったのではなく。
むしろその逆なのかも知れない。
それを認めるのが嫌なだけで。
「何?」
極力静かにそう問えば、梶原は携帯の向こうで苦笑したようだった。
「あの。今夜そっちに帰ってもいいかなって…思って。一応お伺いの電話をしてみました」
梶原もこの部屋の合鍵を持っているが、秋葉は1人だと分かっている時はチェーンロックをかける。
「…………好きにすれば」
更に、梶原が苦笑する気配がする。
それが分かり、秋葉は溜息を吐きたくなった。
「じゃ!!行きますから!!起きてて下さいね!!」
秋葉の気が変わらないうちに、とでも思ったのか。
梶原は明るく言うと、一方的に通話を切る。
「…………起きてるけど……」
起きているのは構わないが、一体いつ来るのだろう。
もしも眠くなってしまった場合に困るので、先にチェーンを外しておこうか。
そう思い、秋葉は玄関に向かった。
片足にスニーカーを突っかけ、ドアに手を伸ばした瞬間。
ドアチャイムが鳴った。
「…………っ!!」
この音は、玄関で聞くと意外に大きく響くのだ。
本当に滅多に無い事だが、素の状態だった秋葉の心臓はあまりの音に驚いてしまう。
「秋葉さん、あーけーてっ」
梶原の声がした。
先程の電話は、マンションの下からかけていたのか。


―これってオオカミと7匹の子ヤギだ…。


黒が呟く。
「馬鹿か、お前……」
秋葉は跳ね上がったままの鼓動を落ち着かせながら、チェーンに手を伸ばす。


―声は梶原だけど。レンズから見てもきっと梶原だけどっ!!
 ドアを開けたらオオカミが入ってくるんだっ!!!


「うるさい……もう黙れ」


―……柊二のケチ。堅物。石頭。


ぶつぶつと呟いて、黒が黙る。
秋葉は鍵を開けると、ドアを開けた。
「ただいまっ!!秋葉さん」
「…………」
梶原の笑顔を見ていると、何だか気が抜ける。
この感情を安堵と言うのだと、秋葉は思い直す。
それでもそれを認める事が出来ず、秋葉は玄関に入ってくる梶原を見ていた。
「楽しかった?」
ようやく発したのがその言葉。
秋葉は、しまったと言わんばかりに微かに眉を寄せて、梶原から顔を背ける。
「えーと……」
何から言えばいいか、梶原は靴を脱ぎながら考えているようだった。
「一次会っていうか。一緒にご飯食べただけで分かれてきました。でも居酒屋だったんで、煙草くさくてごめんなさい」
秋葉は無言のまま、ゆっくりと梶原を見た。
そして無意識に、梶原に両手を伸ばしてその身体を抱き締める。
「秋葉さん……?」
戸惑ったような梶原の声を聞き、秋葉はまるで突き放すように梶原の身体から腕を解いた。
「ごめ、ん……どうかしてる」
それだけを呟き、部屋へと戻ろうとする秋葉の手を梶原が捕らえた。
「秋葉さん、もしかして寂しいとか、思ってくれたの?」
それは自意識過剰と言うものだろうか。
そう言われても、構わないと梶原は思った。
「ちゃんと、言って?思ってる事。言わなきゃ分かんない」
梶原は掴んだ秋葉の手に、きゅっと力を込める。
「…っ!先に……手、洗って、うがいもして…っ」
「あ、ごめんなさい。話はそれからですね」
痛みに呻く秋葉の手をあっさりと解放し、梶原はそのまま洗面所にスタスタと入っていく。
秋葉は梶原の手の感触が残る手首を反対の手で包んで寝室へ行き、ベッドに座り込んだ。
「はい!!いいですよ。ちゃんと話しましょう?」
寝室に入ってきた梶原は、秋葉の隣にすとんと腰を下ろす。
そして秋葉の右手をしっかりと捕まえた。
「何で、手……掴んでるんだ」
秋葉が顔をしかめて問う。
「だって、秋葉さん逃げるでしょ、捕まえてないと」
自分の気持ちを口に出して表現するのが、まるで何かの罪悪のように思っているのか。
秋葉はそれを苦手にしている。
他人の気持ちにならば敏感に反応出来るのに。
いや、恋愛感情の類には疎いかも知れないが。
秋葉は願いを言葉にしない。
その心の中に長い間、切なる願いを抱いていたとしても。
「言いたい事は、今言って」
いつもならば秋葉には逃げ道を作っておくのだが。
今日は何故かそんな気分にはならない。
梶原は、秋葉をギリギリまで追い詰めて、本音を聞いてみたいという衝動に駆られる。
「………梶原には、梶原の付き合いとか、そういうものがあって…」
漸く秋葉は胸の内から言葉を口に乗せる。
その声は弱く、まだ秋葉は心を誤魔化そうとしている。
そう思うのもまた、自意識過剰、というものだろうかと梶原は思う。
「……俺、は……」
「うん」
梶原は笑い、秋葉の顔を覗き込む。
「秋葉さんはね。もっと我が儘言ってもいいんですよ、俺には」
俯いた秋葉と目を合わせてから梶原は言った。
「………」
秋葉は迷う。
それが口に出してもいい感情なのかどうか、判断がつかなかった。
宮本の真っ直ぐさ。
誰からも愛されるだろう、本来は明るい人格。
彼にとって、もしかしたら秋葉は脅威だったかも知れない。
だがそれ以上に秋葉にとって、宮本は突然現れた脅威的な存在だった。
初めて、梶原を奪われてしまうような恐怖を感じた。
「俺は…お前に側に居て欲しい…お前を誰にも……渡したくな…い…っ」
秋葉はその言葉を後悔するように、梶原の手を振り解こうと己の手を引いた。
だが。
それを見通していたかのように梶原はもう片方の手で、立ち上がりかけた秋葉の腕を引く。
「………やだっ!!ヘンタイのオオカミっ!!じゃなくてデカわんこっ!!」
ぽすん、とベッドの上に倒れこんだ秋葉の口から、そんな言葉が出てきた。
「………また、急に入れ替わったね…黒ちゃん」
梶原の返事も聞かずに。
唐突に秋葉は黒と入れ替わってしまった。
「柊二……顔真っ赤にして逃げてったよ?」
「そう……」
梶原は大きな目で自分を見上げてくる彼をそっと抱き締めた。
「ちょっとだけ、ごめんね黒ちゃん」
「…………?」
彼の耳に口を寄せ、梶原は囁く。
「秋葉さん。俺は、何処にも行きません。でも、そう言ってくれて、本当に嬉しい」
「煙草くさい……」
くすくすと笑う彼の声が、梶原の首筋を撫でた。

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