第4取調室

□君の声で
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本当に、
自分の気持ちを表現する言葉を知らないんだね

そう言ってお前が笑った

仕方がないから
ひとつずつ教えてあげる

そう言って、笑った


雨の午後。
湿度が高すぎて、ゆっくりと眠る事も出来なかった。
彼はのろのろと起き上がり、エアコンのリモコンに手を伸ばした。
表示が除湿になっている事を確かめてから、眠い目を擦りながらスイッチを押す。
冷房にすると、身体が冷えすぎて嫌だ。
それはもう1人の自分の言い分だ。
「冷房の方がいいんだけどなあ……」
彼、『黒』はそう呟く。
しかし、この身体はもう1人、『柊二』と共有しているものだ。
共有していると言うよりも、主人格は柊二である。
主人格が不調になれば、彼にも影響がないとも言えない。
「あれ?黒ちゃん……もう起きちゃったの?寝不足だと思うんだけど大丈夫?」
カタコトと物音がしていたキッチンへ行くと。 梶原が振り向いて笑った。
梶原は、彼と柊二を見間違える事はない。
たとえ彼が一言も言葉を発しなくても、目を見れば分かるのだと梶原は言う。
それが何故なのか、彼にはよく分からない。
もしかしたら梶原に理由を問っても分からないのかも知れない。
「…眠い…」
と、いうよりも。
頭がガンガンする。
少々呼吸も苦しい。
きっと、少し前に柊二が発作を起こしたのだろう。
彼はそう見当をつけて梶原の側に近寄った。
「何、してるの…」
きゅう、と梶原に後ろから抱きつく。
梶原に触れていると気持ちが落ち着いてくる。
「かじわらは…ちゃんと眠ったの?」
背中に耳を当て、鼓動を聞きながら彼は梶原に問う。
「寝たよ?多分黒ちゃんよりは」
くすり、と笑い、梶原は彼の腕を撫でた。
手のひらは濡れているので、腕で。
「先に、ご飯作っておこうと思ってたんだけど…」
ざあ、と流水で手を洗い、梶原はタオルで水滴を拭く。
「黒ちゃんと食べるなら、予定変更だね」
ようやく梶原が、きちんと彼を抱き締める。
眠りに落ちる瞬間と、目覚める瞬間が恐いのは。
柊二も彼も一緒だった。
「俺のことは…いいよ…だって…」
いつまでここに居るか分からないのに。
柊二の気が変われば、すぐにあの場所へ帰らなければならないから。
彼はその言葉を飲み込んだ。
梶原に通じる最適な言葉が見つからない。
「子供じゃ、ないし…」
梶原は器用だから。
器用というよりも、『ふたり』をしっかり受け止めてくれるから。
「柊二と、一緒で…いい…よ」
「黒ちゃん」
いつまでも視線を合わせようとしない彼を訝しげに見つめ、梶原はそっと彼の背を撫でる。
主人格よりもずっと幼い彼の精神は、今、少し不安定なのかも知れない。
「何か、言いたい事があるんじゃない……?」
肝心な言葉を隠すのは、この『ふたり』の共通点だ。
「……何も、ないっ」
くすぐったそうに彼は呟く。
そして梶原の腕の中から出て行った。



「何も、ないもん……言いたい事、なんか……」
彼は、眠気も手伝ってもう一度ベッドにうつ伏せに倒れ込む。
梶原が追って来る気配はない。
彼はどうしようもないもどかしさを感じて、それすら言葉に出来ずに目を閉じる。
外見は、間違いなく大人で。
それでも『中身』は違う。
その事を理解してくれている梶原という存在に救われているのに。
時折、悲しくなる。
「何も、ないもん……」
目を閉じていなければ、涙が出てしまいそうだった。
どうしてこんなにも悲しくもどかしいのか、分からない。
「黒ちゃん……」
いつの間にか部屋に入ってきた梶原が、優しくその名を呼ぶ。
彼は返事もせずに眠ったふりをしていた。
きっとそんな芝居など、梶原には通用しないのだろうけれど。
それほど敏いくせに、ある時梶原はひどく鈍感になる。
さらさらとした髪をゆっくりと撫でられ、彼はひとつ深く吐息を零した。
雨の音と、梶原の手のひらの心地良さ。
せっかく梶原と過ごせる休日の午後だったのに。
そう思いながらも、彼はすとん、と眠りに落ちる。



そこは、何もない空虚な場所。
以前のように檻はなく、以前のように暗くもない。
あやふやな空間。
明るい場所から不意にここに来ると、目が慣れるまでに時間がかかる。
彼は顔をしかめ、もうひとりの自分を捜した。
あまりに何もない場所なので、気をつけていないと平衡感覚すら失われる。
彼はここを一番『死』に近い場所だと思う。
全てが生み出される場所であり、全てが還る場所。
自分達の魂の根源。
それは、こんなにも閑散とした薄ら寒い場所。
心細くて、彼は座り込んで泣き出してしまう。
「黒……?」
小さく小さく身体を丸めていた彼に、そっと触れた手があった。
「柊二……っ」
もうひとりの自分に会えた安堵で、彼は堰を切った様に声を上げて泣き始めた。
柊二は戸惑いながらも、彼の身体を抱き締める。
この場所で会う時。
以前はまるで双子の様になにもかもが同じだった2人は、今は姿を変えている。
柊二はほぼ身体と同じ実年齢。
彼はまだ10代の少年だ。
梶原に認められ、背伸びをする必要がなくなった分、彼は幼くなった。
「どうしたんだ?梶原と喧嘩でもした?」
柊二は、冷たい手のひらで、それでも梶原と同じ様に彼の背を軽く叩く。
ぶんぶんと首を横に振り、彼はしゃくりあげながらそれを否定する。
「…違う…わかんない…」
言いたい事を我慢して。
我慢する以前に、言葉を見つける事すら出来ず。
結局はこうして癇癪を起こす。
「癇癪黒ちゃん…梶原が心配するよ?」
くすり、と笑い。
柊二は彼の頭を撫でる。
「そんな子供じゃない…っ!俺だって……っ」
「黒……」
幼い彼は、恐らく主人格である自分に振り回されているのだと、柊二は思う。
以前は痛みだけを背負わせ、今も都合良く彼を利用しているのかも知れない。
何故彼がこんなにも幼いのか。
そして、何故この場所では実際に姿までが幼くなるのか。
柊二はそれを考えていた。
おぼろげな記憶の中でも、10代が一番はっきりとしない時期ではないかと思うのだ。
今現在にさほど必要ではない時期の記憶。
バラバラになったパズルの欠片。
彼は無意識にそれを拾い集めようとしているのではないだろうか、と。
「お前も俺も…欲しいのはきっと同じもので……」
「うん……でも、きっとそれはもう手に入ってる…」
彼は柊二の身体に抱きついて、呟く。
「そうだね。だから……」
希求ではなくて。
失いたくないという想い。
いつか消えるかもという恐れ。
手に入らないと言っては泣き。
手に入れれば失いたくないと泣く。
まるで駄々をこねる子供のよう。
「一緒だ、お前も俺も」
彼の頬を伝う涙を拭ってやり、柊二は微笑んだ。
「早く帰って、梶原にちゃんと言えばいいんだよ」
今日は機嫌がいいから、もう少しここにいてやる。
柊二はそう言って彼を抱いたまま立ち上がる。
ゆっくりと彼の身体を降ろすと、指先で額を小突いた。
「……あいたっ!!」
彼は両手で額を押さえ、一歩よろめいた。
「ほら、梶原が呼んでる。あったかい方へ行くんだよ」
微かに流れ込む空気。
温かい風。
柔らかな光。
そして、声。
「柊二……」
すう、と彼の意識が何処かへ引き込まれる。
「大丈夫。梶原が教えてくれるよ」
言葉だけを遺し、もう柊二の姿は見えなかった。



「あれ、もう起きちゃった」
彼がぱちりと目を覚ますと。
梶原が側に座っていて、彼の背中に手を当てていた。
その温かさにぼんやりと視線を揺らし。
彼は僅かに首を動かして梶原の姿を見上げる。
「俺が、誰か、分かる?」
寝起きの掠れた声。
彼はそう問いかけた。
梶原は微笑み、彼の頭を撫でる。
「黒ちゃんだよ」
その声が、嬉しくて。
嬉しくて、嬉しくて。
彼は梶原と同じ様に微笑んだ。
「………ヘンタイっ」
「あのねえ。……どうしてちゃんとした言葉を知らないのかなあ、この子は」
がくりと肩を落とす梶原の姿に、彼はまた笑う。


ねえ。
言葉を教えて。

その優しい声で。

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