第4取調室

□封印された本質
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薄暗くなり始めた夕刻。秋葉を置いて、30分程外出していた梶原が部屋に戻ると、まだ灯りがついていない。
玄関に入ると、微かにテレビの音が聞こえた。
滅多にテレビをつけない秋葉にしては珍しい。
どうやら夕方のニュース番組のようだった。
「秋葉さん…ただいま…」
部屋の隅に置いてある薄型テレビから、対角線上。
できる限り画面から離れた場所に、秋葉は膝を抱えて座っていた。
まるで逃げ場を失ったように。
「……黒ちゃん…?」
その横顔を見れば、それが秋葉ではなく彼だと分かる。
いつもならば、秋葉の意識と入れ替わり、表に出てきた時には全身で梶原に甘えてくる彼なのだが。
今日はただ、テレビの画面を呆然と見つめているだけだ。
「どうしたの…」
梶原は灯りをつけ、彼の側にそっと近寄る。
膝を抱えた、その腕に。
幾つもの爪の跡。
ひどく抉っている箇所も多く、血が滲んでいる。
「黒ちゃん!?」
「…あ…かじわら……」
梶原が彼の肩に手をかけて、それでようやく気がついたという様子で彼が目を上げた。
「久しぶり…」
「どうしたの、これ、何があったの?」
半袖のシャツを着ていた、その腕が傷だらけだ。
その傷の多さは、あまりにも常軌を逸した状態に思えた。
「さあ…?…やったの、俺じゃないし…わかんない。柊二、が…やったんじゃない…?」
彼の口調もどこかぼんやりとしていて。
「白ちゃんは?どうしたの?」
ここの所、秋葉の精神状態はずっと安定していたのに。
自分が居なかった、たった30分の間に一体何が起きたのか。
「何か、変なの…」
彼は呟くと、梶原に縋るように抱き付いた。
あまり傷口には頓着していないようだ。
彼は元々痛みに対してかなり強い耐性を持っている。
だが、彼の背中に手を当てるとその鼓動が早すぎる事に気付く。
早く手当てをしたいが、梶原はまず彼を落ち着かせる事を優先した。
梶原に縋りながらも、彼の視線がまだテレビの画面に向けられていて。
全身の神経がそちらに向いている事に、もっと早く気付けば良かったと、梶原は彼の視線を追ってから気付いた。
『相模被告はー…』
夕方の民放のニュース番組。
週末の特集枠。
画面に相模の写真が映し出されていた。
とっさにリモコンを探したが、手が届く場所にはない。
梶原は彼の視界を塞ぐようにその身体を抱き締めた。
「柊二の事も、言ってた…。この人が…柊二を壊したんだね…」
それは秋葉と彼が共有していない記憶。
彼は左肩の傷跡の意味も、何も知らない。
「白ちゃんはどこ!?黒ちゃん、秋葉さんは?」
「今は…柊二を呼ぶの、やめた方がいいと思うよ…だから俺がここにいるんだもの…」
梶原の手に背を撫でられ、幾分彼の鼓動が落ち着きを取り戻す。
テレビはようやく特集を終え、スポーツコーナーにがらりと雰囲気を変えていく。
「前後編だって…来週もあるんだって…」
「それはもういいから、黒ちゃん」
世間はそれでもいいかも知れない。
相模の生い立ちや幼少時代を辿って、犯行に行き着くまでを見たとしても、所詮他人事だ。
だがここにいる彼は違う。
彼は事件の当事者であり、紛れもない被害者だ。
「そうか……」
ふと、彼が呟く。
僅かに身動ぎをして、梶原の腕から逃れると、彼はテレビの画面を見つめた。
「そう、か……こいつの……」
ゆらりと彼は立ち上がる。
「こいつの、所為、か……」
狂気を含んだ眼差しと、唇に浮かぶ薄い笑み。
「……ねえ……」
既にテレビの画面は、何の関係もない18時台のニュースに変わっているのに。
彼の網膜に焼き付いた相模の顔は消せない。
「殺してもいい……?殺したら、ぜんぶ終わる?……いいよね?」
それが当然の事と言わんばかりの口調に、梶原は顔をしかめた。
痛みを知らない彼に、ひとつひとつ、それを教えてきた。
愛情も、温かいものも、綺麗なものも。
何ひとつ知らなかった彼に。
梶原は彼の存在を知った時から、主人格と彼の存在を分けてきた。
主人格である秋葉もそうだ。
反発しながらも自分の中にいる彼を認め、大切にしていたはずだった。
そうであるからこそ、今の、少し幼くて柔らかい彼が存在するのだ。
しかし、本来『黒』という人格の根底にある本質は、何だったか。
秋葉が抱え切れなかった痛みと苦痛を背負い、秋葉の心の闇の中で息衝いていた彼の本質は。
梶原は、彼と初めて会った時の事を克明に思い出した。
彼の中に在ったのは、怒りであり、それを糧にした衝動。
「絶対に、俺が殺すから……」
絞り出す様に、彼は低い声で殺意を口にする。
それがあまりにも静か過ぎて、ぞっとするような冷たさを含んでいて。
梶原は、彼の右手を掴む。
「黒ちゃん」
普段は温かい彼の手が、冷たい。
穏やかさも、幼さも、何もかもが消えている。
「殺してやるから……」
それは彼が守るべき主人格の身体と心を壊した当然の報い。
彼が、もうひとりの自分の為にやらなければならない事。
「黒ちゃん、それは違う……違うよ」
秋葉を、彼を独りにしてしまった事を悔やんでも取り返しがつかない。
梶原は彼の手を取り、何とか激情に駆られていく彼を現実に引き戻そうとした。
「離せ!!」
大きく目を見開き、彼は梶原の手を振り解いて叫んだ。
恐らく何の心の準備もなく相模に関するニュースを見てしまった秋葉は、過去に引きずり戻され。
痛みに耐えかねた秋葉を救う為に入れ替わった彼もまた、彼自身の本質に引きずられている。
部屋を出て行こうとする彼を、梶原が捕らえて壁に押さえつけた。
「黒ちゃん!!」
「離せ!!!」
梶原は、まるで獣の様に暴れる彼の両手を掴む。
「落ち着いて!」
多少乱暴にその両手を壁に叩きつけ、梶原は彼に向かって叫んだ。
彼の肩がぴくりと跳ねる。
「……あれ……?かじわら、どうしたの……?」
我に返ったというよりも。
最初から何事もなかったかのように、彼はきょとんと梶原を見つめる。
「黒ちゃん……?」
「うん……なあに?……あれ?この傷、どうしたんだろ。また柊二がやっちゃったのかな……」
梶原が彼の両手を離すと、彼は自分の腕を見てそう呟いた。
「ねえ、かじわら…今日は何して遊ぶ?」
梶原を見て、嬉しそうに彼が言う。
それに対して、漸く不審に思われない程度の笑みを返し。
梶原は自分の中に渦巻く動揺を、必死で押し殺した。
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