捜査共助課3(短編小説)

□無題
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春はいつも

大切なものを

この手から

奪おうとする




3月も今日で終わる、火曜日の朝。
地下鉄の駅から地上に上がり、秋葉は足早に署へと歩いていた。
学生は春休みに入り、早朝の人の流れも若干変わっている。
大塚署管内には学校が多い。
普段ならば高校生や大学生が見られる歩道も、今は閑散としていた。
不意に、咲き始めた桜の木が目に入り。
秋葉は目を逸らしてしまう。
ここ数日の冷え込みで、桜は少しずつその花を咲かせていく。
温暖化の影響なのだろう、毎年、桜の開花は早くなる。
今日が3月の終わりで。
もう季節は春だ。
触れる空気で、また春が巡ってきた事を身体は理解していた。
だが、心がまだついていかない。
感覚は季節を捉える事を無意識に拒む。
傷口が開いてしまわないように。
ただ。
同じ事は繰り返さないように。
少しでも、前へ進めるように。
思い出さないように。
それだけを、まるで己に命じるようにして、秋葉は自分にとって忌まわしいだけの季節を過ごす。
「おはようございます」
署内に入り、擦れ違う署員と言葉を交わしながら、刑事課の扉を開ける。
「おっはおはおは、おはよっす」
珍しく、影平が秋葉よりも先に出勤していた。
相変わらずテンションが無駄に高い。
夜勤組が吸った煙草の煙のにおいが、まだ部屋の中に残っていた。
この場所は原則禁煙なのだが、優と庶務の久美がいない時間は、あくまでも『原則』という事になる。
優が出勤してくるまでに、空気を入れ換えておかなければ。
こんなむさくるしい職場で、むさくるしい男共と対等に渡り合っているとはいえ。
彼女は女性だ。
しかも煙草は好きではない。
煙草を吸っている者よりも、その煙を吸わされている者の方が、ダメージが大きい。
無論、彼女の身体に悪影響を及ぼす物は少ない方がいいだろう。
そう思い、秋葉は自席に荷物を置き、窓を開けに向かった。
からりと窓を開けると、入ってくる空気は冷たい。
「寒いって、秋葉!!」
影平が抗議の声を上げたが、煙草を吸っていた別班の同僚が窓を開けるのを手伝ってくれる。
「うるさいからな、立花が」
それが分かっているのならば、面倒でも喫煙所に行けばいいのだ。
秋葉は禁煙組だし、優のほかにも煙草を吸わない同僚は居る。
数にすれば喫煙者と非喫煙者は半々、というところだろう。
そうは思ったが、同僚に笑みを返し、秋葉はロッカーの上に置かれていた書類を片手で押さえた。
風が強い。
なるべく早く空気を入れ換えなければ、書類が散乱している影平の机の上が滅茶苦茶になりそうだ。
「うぅぅぅぅわぁぁぁぁ!!!」
秋葉が振り向くのと、影平の悲鳴が上がるのは同時で。
予想通り、白い紙が影平の周囲に舞っている。
既視感、に似た何か。
微かな目眩に、秋葉は一瞬目を閉じた。
「閉めろや、馬鹿!!」
影平の声に、側にいた同僚が何事か笑いながら言葉を返す。
意識が何処か、現実とは離れた場所へ行こうとする。
それを何とか押し止め、秋葉は落ちている影平の書類に手を伸ばした。
「いいよ、もう!触んな」
それは特に何か意味のある言葉ではなかったのだが。
影平は不貞腐れて、秋葉が取ろうとした書類を引っ手繰るように奪う。
「…………っ」
その途端、指先に鋭い痛みが走り、秋葉は顔をしかめた。
「あ!!ごめん!!」
秋葉の、右手の人差し指から鮮血が溢れるのを見て、影平が声を上げる。
紙は時に凶器になる。
秋葉は思ったよりも深く切れてしまった指先を左手で包み、握り締めた。
「すみません、俺の方が不注意でした」
秋葉は影平に言い、近くの棚に置いてあった誰の物でもないティッシュを取る。
それで指を覆い、そろそろ換気を終えるために、再び窓に右手を掛けた。
じわり、と血が滲んでくる。
「ほれ、絆創膏!!」
影平が不在の薬師神の机を勝手に漁り、大きめの絆創膏を秋葉に渡した。
「ありがとうございます」
それを受け取り、彼にしては申し訳なさそうな表情を浮かべている影平に、秋葉は少し笑ってみせる。
窓を全て閉める前に、少しきつめに絆創膏を指先に巻いた。
すぐに出血は止まるだろう。
秋葉は、まだ煙草のにおいは残っているが、優が少々顔をしかめれば終わる程度までになったフロアを見回す。
「……今日は遅いな、うちの茶坊主」
何かが足りないと思っていた、その理由が影平の言葉で分かった。
梶原がいない。
梶原がいないのならば、秋葉が同僚に茶を淹れる事になる。
通常であれば、秋葉よりも早く出勤しているはずだ。
首を傾げながら、秋葉は給湯室へ向かう事にした。
ポットの湯を入れ換え、それぞれのマグカップにインスタントコーヒーを注ぐ。
梶原がここに配属されるまでは、これは秋葉の仕事だった。
もちろん同期の優の仕事でもあったが。
優はまだ出勤していない。
かといって、彼女の出勤が遅すぎるという訳ではない。
自分たちが早すぎるのだ。
お茶汲み、と言われる仕事は、秋葉にとって別に苦にはならない。
何事に置いても『女性』というフィルターを通して己を見られる事を嫌う優に、この役目を押し付けるつもりもなかった。
従って、以前は平等に交代制でこの雑用を行っていた。
梶原よりも不味い茶を淹れる秋葉。
その秋葉よりも更に不味い茶を淹れる、優。
今ではそんな構図が出来上がっている。
同僚も、秋葉にならまだ文句も言い易いのだろう。
「梶原の方がいいのに……でも立花よりはいいか」
などと、2割が冗談、8割が本気の言葉を投げられる。
「それにしても。遅過ぎ……じゃないですかね?」
影平が陣野に問う。
扉が開いた音がして、一斉にそちらを見れば、その場で優が目を丸くしている。
「え?……え!?何ですか?」
「いや。何でもない。おはようさん」
それぞれが苦笑して優に声を掛けた。
時刻は7時40分。
それが8時を回った頃、梶原がまだ現れない事が本格的に気になり始める。
陣野が梶原の自宅と携帯に電話をかけてみたが、それにも反応はない。
折り返して梶原からの連絡が来る気配もなかった。
じわり、と秋葉の指先が痛む。
その指先から、整然と整えられた梶原の机の上へと視線を移す。
その時、陣野の携帯が鳴り始めた。
「お?梶原だ」
2つ折りのそれを開き、陣野は通話キーを押す。
別に、仕事に遅刻をしているという訳ではない。
陣野も普通の口調で応答した。
「寝坊、か。あいつに限ってそんな事はないか。電車が止まってるとか?何かそんな情報入ってる?」
影平の声が耳に入る。
秋葉は、朝礼までの間、作成中の書類に目を通す事にした。
「え!?事故!?」
陣野の言葉に、秋葉は顔を上げる。
影平と目が合った。
どうやら梶原の携帯からかかってきた電話は、梶原からのものではないようだ。
陣野が眉をひそめてメモを取っている。
あまりいい報せではない事くらい、その顔を見れば嫌でも分かる。
「ええ。はい、分かりました。ご迷惑おかけします」
陣野が通話を終わらせる。
携帯を閉じる音が、いつもより大きく感じられた。
「梶原が事故に遭った。正確には、事故に遭いそうになった子供を助けたようだ。詳しい事はまた連絡が入るから」
そう言い置いて、陣野は課長の三島に報告するべく立ち上がる。
「事故………?」
その事実だけを目の前に置かれ。
内容が分からないという事は、ひどく恐ろしい。
きっと、そんなに大した事はないのだろうと思う一方、背筋が寒くなるような感覚を覚える。
秋葉は動揺している自分を周囲に気取られないように、もう一度書類に視線を落とした。
事態の詳細が入ってきたのは、それから数十分後。
朝礼も終わり、今日は梶原が休みという事を告げられ。
その後で陣野の口から説明を受けた。
交差点で歩行者用の信号を待っていた所へ、スリップして転倒した大型バイクが横滑りに突っ込んできたというのだ。
ライダーは転倒と同時にバイクから投げ出されたが、無事らしい。
コントロールを失ったバイクだけが何かに当って止まるまで、路面を滑っていたのだ。
歩道には梶原と、小学生らしき男児2人が立っていた。
バイクがどのような動きをするのは、見当はつかない。
梶原はとっさに2人を両手に抱えて庇ったのだという。
結局、縁石で一度バウンドしたバイクの後輪が梶原の身体に当たった。
医療センターに救急搬送されたが軽傷で、命に別状は無いという。
打った場所が頭部という事と、当初意識が無かったという事があり、大事を取って今日は検査入院になるらしい。
それを聞き、何処かほっとした空気が刑事課に流れた。
梶原は誰に対しても人懐こく、誰からもそれなりに可愛がられている。
「梶原君らしいと言うか、何と言うか」
安堵したような優の呟きが聞こえた。
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