捜査共助課3(短編小説)

□ぬけがら
1ページ/1ページ

痛みも何も感じないように

抜け殻になってしまおうと思っていた

心も身体も

命を持たない抜け殻に




不意打ちで訪れる痛みは、いつになっても恐い。
「………っ」
秋葉は一瞬呼吸を止めて顔をしかめる。
痛んだのは左肩なのに、右手にそれが伝わってきた。
強張った手のひらから、ペンが机の上に転がり落ちる。
ころころと、そのままそれは床へと落下していった。
さわさわと刑事課のフロアの空気は動いている。
同僚たちに気付かれないように、秋葉はそのまま浅い呼吸を繰り返した。
時折今も、左肩に残った傷跡が痛む。
予測できないタイミングで訪れるそれには、対抗する術がまだ見つからない。
息を吸い込む度に身体が痛みを訴えるので、こんな時は深い呼吸をする事にすら恐怖を覚える。
「………」
しかし息を詰めてしまうと、余計に痛みが激しくなるので、秋葉は何とか最低限の呼吸をする。
まだ身体を動かしたくはなかったが、視界の隅に入っている床に落ちたペンに秋葉は無理に右手を伸ばした。
そうでもしなければ、このまま動けなくなってしまいそうだった。
同僚に気付かれる事だけは避けたい。
「……ほら」
秋葉の手よりも先に、誰かの手がペンを拾い上げる。
自分が思っているよりも、身体は動いていなかった。
机の上に置かれたペンを見てから、秋葉は傍らに立つ薬師神に目を向ける。
「すみません……」
苦笑し、秋葉は頭を下げた。
血の気がひいた表情も、額に僅かに浮いた汗も。
きっと薬師神には誤魔化す事が出来ない。
「いいよ」
薬師神は笑い、不在の梶原の席にクリアファイルに挟んだ書類を置くと、自席へと戻っていく。
秋葉は大きく息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。
普段なら席を外す時には誰かに伝言を残していくのだが。
生憎今は、影平も優も居ない。
少し離れた場所に座っている森下には、話し掛ける気分でもなかった。
広げていたファイルを閉じている間も、拍動と共に肩が痛み続ける。
それでもこの場を離れてしまえばなんとかなる。
そう思い、秋葉は努めて平静を装い刑事課のフロアを出た。
何処か人がいない場所へ、と考える。
(屋上……かな……)
外の風を吸えば、少しは楽になるかも知れない。
現場に出ている時でなかっただけでも、良かったと思うしかない。
いつも影平に迷惑をかける事だけは避けたかったからだ。
2階から屋上までの階段が、果てしなく遠く感じてしまう。
擦れ違う署員と軽い挨拶を交わしながら、秋葉は屋上へ向かった。
上階へ行けば行くほど、人の動きは少なくなる。
それに安堵しながら、秋葉は屋上の扉に手をかけた。
外は、曇り。
桜はもう、散ってしまっている。
秋葉は扉から死角になる場所へ行き、フェンスに背中を預けた。
ようやく独りになったという安堵からか、膝に力が入らなくなる。
ひどくなっていく一方の痛みに軽く呻き、秋葉はコンクリートの上に座り込んだ。
右手で左肩を覆い、呼吸を整える。
「………秋葉」
自分の鼓動だけを聴いていた秋葉の耳に、薬師神の声が聞こえた。
コンクリートの上に、影が映る。
「ヤク、さん……」
「そのままでいいよ」
見つかってしまった事に動揺する秋葉を制し、薬師神はそう言った。
「痛むのか」
「いいえ……」
問いかけに、意味のない嘘を吐く。
誰かに見破られるなら、いっそ薬師神の方がいい。
秋葉はそう思いなおし、顔を上げる。
「今年は…もう桜が散ってるから、まだマシ、なんですけど……4月、は……」
4月は苦手で、嫌いで。
そして恐い。
「うん……」
薬師神は、穏やかに頷く。
彼は、秋葉の感じている痛みに対して、対処すべき方法が無いことを知っている。
薬師神はひとり分の間を置き、秋葉の隣に腰を降ろした。
秋葉は、もう嘘で誤魔化す事も出来ない事を悟り、震える息を吐き出した。
「俺…ずっと、自分は抜け殻なんだって思ってて……」
それでも薬師神の方を見る事はせず、秋葉は右腕に顔を伏せる。
「中身が何も、入ってない。殻……なんだって」
笑うような声で、秋葉は言った。
中身のない器。
抜け殻。
魂を持たないもの。
自分はそんな存在なのだと秋葉は笑う。
「いろんな事、本当はもっと考えていかなきゃならないんでしょうけど……まだ、何も出来てなくて……」
何も出来ないまま、こんな痛みに振り回される。
まるで独り言のように、秋葉は小さく呟いた。
少しずつ、傷跡を核として生じた痛みが指先へと抜けていく。
徐々に深い呼吸を取り戻しながら、秋葉は伏せていた顔を上げた。
「………心に抱えてるものってさ……」
薬師神は、何事も無かったかのように空を見上げる。
「誰とも………共有できない類のものが多いよな」
種類は違うが、薬師神も心を切り裂かれるような痛みを知っている。
ふわり、と春の風が吹きぬけた。
その温度は心地良く、秋葉の痛みをゆっくりと消していく。
「お前が、前に俺の話を黙って聞いてくれたから……俺はかなり楽になったんだけど……。抱えてるものを口に出すって事は大切なんだなって思って……」
己に何の価値も見出せない、秋葉に。
薬師神はそうではないのだと伝えようとする。
「俺も、誰かに殺されかけたら……やっぱり恐いと思う。そういうの、当たり前だから。焦る気持ちも分かるけど、ゆっくりでいいと思う」
「…………」
秋葉が口を開こうとした時。
乱暴に扉が開かれる音がした。
足音も荒く、影平が飛び出してくる。
きょろきょろと辺りを見回した後で、くるりとこちらを振り返った。
「………こらぁぁぁぁぁ秋葉ぁぁぁあっ!!!!何サボっていやがる!!あ!!ヤクまで!!!」
「うるさいなあ……お前だってヌードグッズ愛好会で遊んでた癖に」
苦笑し、薬師神は立ち上がった。
「てめー、何やってんだよ!!秋葉は俺の下僕だぞ」
「別に。静かに話したかっただけだ。お前がいるとうるさくてかなわない」
「あの、下僕じゃない、です……」
一瞬、手を貸そうかと視線を向けた薬師神に笑んで見せ、秋葉は自力で立ち上がる。
「秋葉っ!!書類が溜まってるんだから、ヤクと遊んでる暇なんかねえんだよ、お前」
「………また自分の仕事を俺に押し付ける……」
影平の勢いに引きずられるように屋上を後にする秋葉が、薬師神を振り返った。
薬師神はそれに笑って手を上げる。
「影平……そういうのが、秋葉に嫌われる原因なんだってば」
「うるせえっ」
それでも、影平の押しの強さに秋葉が救われる時もあるのだろう。
階段を降りていく2人の後姿に、薬師神はそうであってほしいと願った。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ