捜査共助課3(短編小説)

□最後の手紙
1ページ/1ページ

母が亡くなったのは、17歳の夏の終わり。
うだるような暑い夏だった。
クマゼミの声がうるさかった。
こんなに空気は熱いのに。
どうして母の頬はどんどん冷たくなっていくのだろうか、と。
何処か不思議に思っていた。



「あ〜あ、こんな日に張り込みなんて、ツイてないぃぃぃぃぃぃ……」
今朝から、影平が同じ言葉を口にするのは何度目になるだろう。
5回目くらいまでは秋葉も応えていたのだが、それ以降は面倒くさくなって無視している。
一気に春を飛び越して、まるで夏の初めのような陽気だ。
訳の分からない事を呟くくらいなら、いっそ眠ってもらっていた方がいいかも知れない。
秋葉は覆面車の運転席で、そう思う。
エンジンを切っているので、窓を少しだけ透かしている。
そこから、微かに眠りを誘うような風が吹き込んでいた。
今日の彼にとって、何がツイていないのか。
ひとつだけ、思い当たる事がある。
秋葉は記憶を失った時に、同僚の事を一から覚えなおしたのだが。
その時にそれぞれの生年月日も把握してしまっている。
もちろん、今、助手席で退屈そうに外を眺めている影平も例外ではない。
今日は4月19日。
影平の35回目の誕生日だ。
「こういうの、早く捕まえたいぃぃぃぃ……」
今日は日勤で。
通常ならば、夕方には仕事を終えて帰宅できるはずだ。
現在、午後3時。
あと2時間以内には、張り込みも交代できる。
そこから帰署して、書類をまとめて。
遅くとも18時過ぎには解放されるだろう。
何事もなければ、だが。
影平が、何故こんなにぶつぶつと不平を漏らしているのか、と言えば。
自業自得に他ならない。
要は書類を溜め込み過ぎていて、とても18時になど上がれない、という事だ。
普段は図々しく秋葉に仕事を押し付けようとする影平にしては珍しく、その次の言葉が出て来ない。
それを不思議に思いながら、今日一日、まだ彼と会話らしい会話を交わしていない事に秋葉は気付く。
「誕生日……なんですよね、今日」
「そうだよ?」
何を今更、と言いたげに、影平は秋葉を見た。
「おめでとうございます……、一応」
横目で影平を見れば、まだこちらを見ている。
秋葉は居心地が悪くなってしまい、会話を終わらせるべくそう呟いた。
「…………あんま、めでたくねえんだわ……今年は……」
「………そう、ですか」
秋葉の落とした溜息に、影平は笑った。
「いや……ごめん。ちょっと考え事しててさ。毎年、誕生日には母親の事を思い出すんだよ」
ドリンクホルダーに置いていた、炭酸飲料に手を伸ばして影平が静かに言った。
彼にしては滅多にない穏やかさだ。
それを少々不気味に思いながら、秋葉は視線を張り込みの対象へと戻す。
影平が自分に関する事柄を真剣に秋葉に話したいと思っている時。
秋葉はこうしてまるで何も聞いていないような態度を取る。
その方が、影平が話しやすい事を、秋葉は知っていた。
「オカンはさ、俺が17歳の時に亡くなったんだけど…43歳で」
影平も、助手席の窓の外へと視線を移す。
「癌か、なんかでさ。半年もつかどうかって余命宣告されて。でもそれから1年半、生きたんだ」
秋葉が影平の口から、彼の家族についての話を聞くのは初めてだった。
普段、影平は無遠慮に他人のフィールドに足を踏み入れてくるのだが、実は自分自身の事に関してはあまり明かさない。
当たり前だが、影平にも親がいて。
もしかしたら兄弟もいるのかも知れない。
そう思いながら、秋葉は無言で影平の言葉を聞いていた。
「まあ、それはそれは豪快な人でさ。俺の母親だから。最期まで弱音は吐かなかったけどね」
その日。
亡くなるほんの数分前まで。
彼女は母として、生きようとする姿勢を影平に見せ続けた。
「最期は、もうあかん……って胸の前に両腕上げてさ。バツ印作って」
影平はペットボトルのキャップを開けた。
しゅう、と空気が抜ける音が聞こえた。
「……そんで、あっさり呼吸が止まったんだけど。俺、泣けなくてねえ…」
母が居ないというだけで、それまでとは明らかに空気が違う家。
居ないという事を受け入れるのに、随分時間がかかった。
今日からは泣く暇なんてない。
自分がしっかりしよう。
そう自分に言い聞かせた。
葬儀が終わり。
泊り込んでいてくれた祖母が自宅へ帰り。
年の離れた、まだ小学校に上がる前だった双子の弟妹は、母親が入院してからずっと伯母が面倒を見てくれていた。
伯母夫婦には子供がなく、このまま養子として引き取ろうかという話も出ていたと思う。
初めて、父親と2人で迎えた静かな朝。
夏休みは、いつの間にか終わっていた。
「親父が一生懸命飯を作ってくれるんだわ、これがまた不味くてなあ……」
不慣れな手つきで父が作った朝食。
真っ黒に焦げた塩鮭、ゆですぎた野菜。
炊飯器でどうしてここまで失敗できるのかと思うほどに、水気が多くてべたべたのご飯。
「んでも、無言で食ってさ……」
言葉を発したら、きっと涙が出てしまうと思ったのだ、お互いに。
登校しても、周囲も影平をどう慰めたものか、という空気だった。
それが嫌で、2時限目には教室を飛び出した。
「弁当も持たせてくれててさ、親父が。白米の上に梅干どーん、卵焼き、メザシが3匹、みたいなの?」
それを、早退して帰宅した、自宅で見た。
誰も居ないと思った家の中。
耳が痛い程静かだった。
「それ、見たときに。笑っちゃって。その後初めて涙が出た」
静かな家で、声を上げて泣いた。
「馬鹿みたいにさあ。家の中、オカンを探してさ」
扉という扉、全てを開けてみても。
もう何処にも母はいなかった、と影平は笑う。
「そしたら。次の年の誕生日から、俺宛に手紙が届き始めたんだよね」
郵便受けに届く、消印の無い封書。
宛名は影平遼様、となっている。
差出人は、母。
「誕生日おめでとう……ってさ。次の年も、その次の年も。毎年、誕生日に一通、オカンから手紙がくるんだ」
もちろん、消印の無いそれは、恐らく父親が自宅の郵便受けに入れておくのだろう。
それは、影平が実家を離れてからも続く。
ひとつだけそれまでと違ったのは、切手が貼られ消印が押され始めた事だ。
「大学行かないって言ってたけど、警備会社にちゃんと入ったか、とか。結婚したか、とか」
その年齢に合わせた言葉や質問が、数枚の便箋に書かれている。
母は、影平が結婚した年もぴたりと言い当てた。
次の年には、そろそろ娘が生まれているだろう、と書いてあった。
途中、この封書の中身は、本当は父親が書いているのではないかと疑った時期もあったのだが。
いつの間にか、毎年誕生日を心待ちにするようになっていた。
「じゃあ今年も……?」
秋葉が、影平から目を逸らしたまま問う。
影平は微かに笑ったようだった。
「いや、もう今年は届かないと思う。多分去年が最後だった」
「…………どうして」
秋葉は思わず、影平の方へ顔を向けた。
「書いてあった、去年の手紙に。だから、今年はもう来ないと思う」
影平は炭酸飲料を一口飲み、息を吐いた。
17歳の息子が成長した姿を。
そこから17年先までしか、母は想像できなかったのだ。
そこで力尽きたのか、それとも本当に想像がつかなくなったのかは、もう誰にも分からない。
「でも、なぁんか早く帰って郵便受けを覗きたい気分なんだよね」
悪戯っぽく言いながら、影平は笑った。
「でも、多分何も届かないから。ああ、本当にもうオカンは居なくなったんだなって……現実を確認するのが、本当は恐いんだろうな」
もう、母は居ないのだという現実。
それを本当に認識する事が恐い、と。
「分かってるつもりで、今まで本当は分かってなかった気がして」
影平は、半分中身が残ったペットボトルで膝を叩く。
その度に、炭酸水が軽やかな音を立てた。
「ま、こういうのお前に話す事でもないわな。悪い悪い」
ひらひらと、何かを振り払うように影平は右手を振る。
まるでそれを合図にしたように、交代の同僚が乗る覆面車がこちらに向かってくるのが見えた。




「はあ!?何言ってんのお前?」
署に戻り、一応今日の分の書類を手早くまとめた影平が、声を上げた。
「その残った書類、俺に下さいって言ってるんです」
秋葉は真顔で右手を影平に差し出す。
「前、俺の書類作ってくれたじゃないですか。借りは早めに返しておきたいんで」
いつもならばこんな申し出を秋葉がした途端に飛びついてくる影平が、動かない。
秋葉は影平の机の上に手を伸ばし、ファイルを数冊取り上げる。
「何ですか?何か文句でも?」
「いや……お前に訳も無く親切にされると恐い」
本当に恐いのは、現実に触れる事なのだが。
影平は誤魔化すようにそう呟く。
「言っときますけど。今日のこれは、貸しじゃないですから。俺からの誕生日のお祝いって事で。じゃあ、お疲れ様でした」
秋葉は用件だけを言うと、さっさと自席へと戻っていく。
そしてファイルを開きながら、影平を見た。
「もう。早く帰って下さい。きっと待ってますよ、みんな」
「………ありがと」
ようやく笑んだ影平に控えめに笑って見せ、秋葉はペンを取る。
「今度、ちゃんと礼するから」
「いりません、そっちの方が恐いです」
フロアを出て行こうとする影平が投げた言葉に、秋葉はそう切り返した。
「本当に、可愛げの無い奴……」
「………俺からそれを取ったら何も残りませんよ」
背後でドアが閉まる。
秋葉はひとり、作業を開始した。


やはり、郵便受けには何も届いていなかったと。
影平からそんなメールが秋葉に届いたのは数時間後。
ぶっきらぼうな短い文面は、『ありがとう』で締めくくられていた。
どうして影平に携帯のメールアドレスが知られているのか、秋葉には激しく謎だったのだが。
それはまた別の話だ。



遼へ。
34歳おめでとう。
遼が生まれた日の事を、今、何となく思い出しています。
何となくって言ったって、はっきり覚えてるんやで。
元気にしていますか?
仕事はどうですか?

ごめんな、お母ちゃん、もうこれ以上遼が成長した姿を想像できん。
遼のお嫁さん、いびってみたかったな。
お母ちゃんやったら、最っ凶な姑になれたやろな?
遼の子供も、抱っこしてみたかったな。
おばあちゃんになってみたかったな。
頑張ったら、ひいおばあちゃんにもなれたかも分からんな?
でも、もう、それは無理な願いやな。

遼、お父ちゃんを頼むで。
まだまだこっちに来られても、私も困るからな。
こっちもこっちで忙しいんやで。
顔も分からんくらい、ヨボヨボになってからにしてくれ言うといてな。
その頃には迎えに行ってもお互い顔が分からんか。
湊と遥の事も頼むで。な。


これからお母ちゃんは、黙って見とるからな。
あんた、じーっとお母ちゃんに四六時中見られとんのやで。
恐いなあ?
………嘘やで。
私もそんな暇人やない!!と、思う。多分。





お母ちゃんの声、まだ覚えてるか?
出来たら、覚えといて欲しいな。





あんたの母親になれて、幸せでした。
これは、ほんまやで。
ありがとう、遼。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ