捜査共助課3(短編小説)

□piano sonata No.8 op.13 2nd mov
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あなたがいつ帰ってきてもいいように
あなたの部屋は
今もあの日のまま

帰ってこない事はわかっているの
本当は
痛いほど、わかっているの

でも
ある日ふとあなたが帰ってくるような
そんな気がして

あなたの部屋は
今もあの日のまま



よく晴れた日は。
周子は家中の空気を入れ換え、淀んだ空気を追い出す。
昨日は、夕刻から激しい雷雨だった。
少し湿った空気が家の中に残っている。
朝起きて、身支度を整えて仏壇に線香を上げ。
もう年を取る事のない娘の事を思い出す。
線香が燃え尽きるまでの十数分。
周子はただ、娘の貴美の事を思う。
それが正しいのか、間違っているのか。
周りが言うように、早く気持ちを切り替えて前を向かなくてはならないのか。
自分では出来得る限りそうしているつもりだった。
残された2人の息子の母として。
自分を支えてくれる夫の妻として。
そしてまだ小さい、愛する孫の祖母として。
長男の比呂は新しい家庭を営み、折を見ては実家を気にかけてくれる。
いつまでも子供だと思っていたのに、いつの間にか親を助けてくれるような年になったのだ、と頼もしく思う。
それと同時に自らの老いというものも痛感し始めた。
「…………」
線香が、ふ、と燃え尽きる。
一筋の白い煙が上へ立ち上り、淡く消えた。
周子は我に返り、ゆっくりと立ち上がる。
そして庭に面した大きな窓を開けた。
途端に蝉の鳴き声が耳に飛び込んでくる。
今日も暑いに違いない。
窓から離れようとして、庭に植えている柊の木が視界に入ってきた。
周子は、それを見つめ。
そして目を逸らす。
あの木の名を一文字取った、次男には。
もう長い間会っていない。
座敷の窓を開け、台所と洋間の窓を開け。
それから熱気が篭り始めた二階へと向かう。
狭い階段を上がりながら、木目の壁の、あちらこちらに残った細かい傷に手のひらで触れる。
比呂や柊二が悪戯をしてつけた傷。
貴美が絵を描いた跡。
上から三段目、少し右へと曲がっていく階段の片隅。
そこには未だに貴美が幼い頃に描いた、小さなヒマワリの絵が残っている。
あれはいつの夏休みだっただろう。
比呂や柊二は朝から遊びに出かけていた。
今よりもっと、世の中は安全だと信じられていた頃。
一緒に行きたいという貴美を置いて、二人は飛び出していった。
宿題はどうするのだ、と問えば、帰ってからやると言う答えが返って。
取り残された貴美は、頬を膨らませ、とぼとぼと二階へと上がっていった。
いやに静かだと思い、少し後から周子が様子を見に行ったのだが。
その時にはこの場所にしゃがみ込んで、貴美は一心に壁に鉛筆で絵を書いていた。
あの日の光景が。
息子たちの声が、娘の横顔が。
今でも、まるで昨日の事の様に思い出せる。
貴美が描いたこのヒマワリを、消してしまう事は簡単だった。
それでも何故か、周子も、夫の貴之も。
これを消す事をしなかった。
目立たない場所、という事もあったのかも知れない。
だが今になって思えば、消さずにいて良かった。
これは貴美が遺して行ったもののひとつになるのだ、と思う。
二階にある3つの部屋は、元々は子供部屋だった。
比呂と柊二が使っていた部屋は、今はもう要らない物は片付けてしまっている。
貴美の部屋だけが、時を失っているのだ。
最後にその部屋に辿り着き、周子は知らず溜息を零した。
何を悔やもうとも、失われたものは帰ってこない。
からり、と窓を開けると、涼しい風が吹き込んだ。
周子は目から零れ落ちた水滴は汗だと自分に言い訳をしながら、机の上においてあるオルゴールを手に取った。
ずっと鳴らしてみようとさえ思わなかったものだ。
きり、きり、きり、とネジを巻く。
そっと指先を離すと、澄んだ音色が響き始めた。
陶器で出来たピアノを乗せた台がゆっくりと回る。
貴美にピアノを習わせた事は無かった。
小学生の頃は、近所の幼馴染にベートーヴェンの『エリーゼのために』の冒頭部分だけを教わってきて、キーボードで飽きることなくその部分だけを弾いていたものだ。
piano sonata No.8 op.13。
オルゴールの側面に、掠れた文字でそう書いてある。
周子が巻いた分だけ、オルゴールは同じフレーズを繰り返す。
それがやがて速度を落として最後の一音が鳴り終えるまで、周子はぼんやりとそれを聞いていた。
「おい」
階下から、貴之の声が聞こえた。
「はい。今、降りるわ」
周子は微笑み、もう一度涙を拭ってから小さな声で返事をした。
「貴美……明日の朝も、また鳴らしてね……」
机の上のオルゴールに、周子はそっと触れる。
それは誰も知らない事実。
今日の明け方、4時49分。
この部屋から、鳴るはずのないオルゴールの音が聞こえていた事。
それは周子だけが聴いた音。
ベートーヴェン・ピアノソナタ第8番『悲愴』第2楽章。
階段を降りながら、今年も盆が近付いたのだ、と周子は微かに思っていた。

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