捜査共助課3(短編小説)

□ひとかけらの幸福
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君が幸せであるように

いつも

願っている


かつん、という音が、静かな境内に響いた。
薬師神は、ふ、と唇に笑みを浮かべて竹箒を持っていた手を止め、鳥居を振り返る。
まだ早朝といわれる時間だろう。
始発が動き始めてしばらく、という所だ。
夜が明けた頃の空気が好きだ。
薬師神は無心で、実家であるこの神社の境内を掃き清めていた。
その静寂を破る音だ。
小さいが、よく響く。
こつん。
再び、今度は少しくぐもった音がした。
薬師神は玉砂利を踏み、そちらへ向かう。
階段の上から見下ろすと、そこにはよく見知った人物がいた。
「………何をしてる」
苦笑と共に、彼に声をかける。
影平は、問いかけには答えず、ぶつぶつと独り言を呟いて首を傾げていた。
その手のひらには、その辺りに落ちている、どこにでもあるような平たい石が握られていた。
「………いんやあ?これ投げて、鳥居の上に乗ったらぁ……願いが叶うんだろ?」
一段一段、階段を降りる薬師神に言ったのか、それともまだ独り言の続きなのか。
私服姿の影平は鳥居の上を見つめている。
そこには、誰かが投げて乗せた様々な形や大きさの石が幾つも乗っていた。
「よいせっ……ああ、また駄目だぁ……」
影平は、手にした石を高く放り投げたが、それは鳥居の上には乗らずに地面に落ちてきた。
「何回挑戦するつもりだ。他人様の乗せた石まで落として」
昨日までは乗っていた石が、いくつか地面に落ちているのを見て、薬師神は溜息をついた。
そもそも影平には、この祈願のルールが分かっていないのかも知れない。
願をかけて石を投げるのは、基本的に一度だけだ。
「乗った奴はいいの、だってもうそれで願いは叶ってんだろ?乗ったんだからさ」
影平の理屈についていけず、薬師神は楠に竹箒を立てかけて苦笑した。
「あの、さ……遼?これ、そんなに何回もやるもんじゃないんだよ……?」
「いいの!!俺がやる分には神様も見逃してくれるの!!」
影平はしゃがみこみ、さっきまで投げていた石よりもいいものはないかと物色を始める。
「…お前……何しに来たの」
階段に腰を下ろし、薬師神は笑みを浮かべたままで影平に問う。
「別に」
影平からは、ぶっきらぼうな答えだけが返ってきた。
いつの間にか蝉の鳴き声もまばらになり。
もう9月が近付いているのだと、薬師神は今更ながらに思う。
にゃあ、と声がして。
長毛種の茶色の猫が足にじゃれつく。
薬師神の母が、『大和』と名をつけた猫だ。
この家に、自分の居場所がない事にはもう慣れてしまっていた。
母の前では行方が知れない双子の兄、翔のフリをしていればいい。
母の目に自分の存在を映すためには、それしかなかったから。
「やまと……」
指先で喉を撫でてやると、『大和』は目を細めて鳴いた。
ふさふさとした尻尾を薬師神の背中にくっつけ、もっと撫でてくれと言っているように見えた。
「お母さんは、もういないんだぞ?」
母がしばらく病院に入院すると妹から連絡があったのは、先週の事だ。
翔がこの家を飛び出してから、彼女は少しずつ病み始めた。
いや、以前から病んではいたのだ。
薬師神は幼い頃から、もう随分と長い間、彼女に名前を呼んでもらっていない。
双子を生んだのに、自分の子供はひとりだけだと。
翔だけだと、彼女は思い込んでいた。
翔が一緒に暮らしていた頃はまだ良かったのかも知れない。
だが、彼はこの家から逃げ出した。
それから彼と同じ顔をした薬師神は、母親に『翔』と呼ばれるようになったのだ。
母親の中では、薬師神はまだ高校生だ。
そして、彼女は自分の中から完全に抜け落ちたもうひとりの息子の名を、最近この猫につけていた。
父親や妹は、かなり複雑な顔をしていたのだが。
薬師神にとってはそんな事はもうどうでも良かった。
どうでもいいと思えるくらい、自分を失っているのかも知れない。
ちょうど夏の休暇をまだ取っていなかった事もあり、数日の休みを取ることが出来た。
入院前夜、それを嫌がる母を、翔のフリをして宥めすかした。
昨日は病院まで付き添い、彼女が眠るまで手を握っていたのだ。
ふと気付けば、母の手は昔よりも細くなり、節々の骨が浮き出ていた。
青白い肌には血管が幾つも巡らされ。
こんなに狂っていても、まだ生きていられるのかと、僅かに思った。
この母が生きているうちに自分は翔を見つけ出せるだろうか、とも思う。
翔を見つけた時。
一体自分はどうなるのだろう。
それがひどく恐い。
「………大和」
ふと影平に呼ばれ、薬師神は顔を上げる。
にゃあ、と傍らにいた猫も声を上げた。
「残念。お前じゃないの、俺が呼んでるのは」
影平が右手に石を持ったまま、薬師神の正面に立っていた。
それを見上げれば、ひどく真摯な眼差しが向けられている事に気付く。
「無駄な事、考えんなよ。馬鹿」
今、目の前にない事をあれこれと考えていても何にもならない。
だから、何も考えるなと。
考えなくてもいいのだ、と、影平は言う。
くるりと踵を返し、影平は再び鳥居の上に石を乗せるべく、石を投げ始めた。
「……へたくそ」
ぽつりと呟き、薬師神は立ち上がる。
「ああ、俺が乗せてた石まで落としやがって……」
足元に転がっていた手ごろな石を取り上げ、薬師神は首を振った。
「嘘つくな、そんなもん見分けがつくかっ!!」
何度やってもうまく鳥居に石を乗せられない影平が、地団駄を踏む。
「本当だよ。……こうやって、投げるんだよ……バーカ」
軽い動作で薬師神が放り投げた石は、一度で鳥居の上に乗る。
「うっわ!!!ムカつく!!ムカつくんですけど!!」
更に頭に血を上らせた影平を横目に、薬師神は目を細めて鳥居を眺めた。
「何をそんなに躍起になって願ってるの?」
「お前っ!!石選んで!!どれなら乗る!?」
問いに答えない影平に、薬師神はひとつの石を選んで渡した。
「なあ、遼……」
「うっさい。黙って見てろ」
「いや、そりゃ見てるしかないけどさ……」
こんな朝早く。
いくら休日とはいえ、普段ならば影平はまだ眠っている時間だろうに。
連絡もないまま、自宅や職場とは全く方向の違うこの場所に、何をしに来たのだろう。
だが、堂々巡りを繰り返していた思考が、影平がいる事でそこから解放されて楽になっているのも事実だった。
「お前が幸せに生きていけるようにって……願ってんだよ……っと」
顔を背けて小さく呟いた後。
影平は薬師神がやって見せたように軽く石を放り投げた。
それは先程薬師神が乗せた石を弾いて鳥居の上に留まった。
「ほら乗った!!出来た!!やった、俺天才!!」
まるで子供のようにはしゃぎ、影平が薬師神を見る。
「俺の石は落っことして、なあ…?俺の願い事はどうなるんだ」
くくく、と笑いながら、薬師神は足元に来た猫を撫でた。
「せっかく………お前の幸せを願っといてやったのに」
「ええ!?うわ、マジ!?んじゃ、もっかい乗っけて?」
薬師神の悪戯っぽい言葉に、影平は真剣に反応する。
「駄目。一回だけなの」
「ドケチな神様だなあ……」
罰当たりな言葉を口にして、影平は座り込んで猫の尻尾を掴んだ。
ぶみゃあ、と抗議の声を上げて、『大和』は走り去る。
「……じゃあ、もっかいだけ。特別にな」
影平に落とされた石を再び取り、薬師神はそれを投げた。
やはりそれは、既に乗っている石と石との間にうまく乗る。
「何願ったんだ?」
「それは秘密。口に出したら叶わなくなる」
「んじゃ、俺の願いは既に駄目じゃんかよ」
「そうさ。本当の願いは口に出しちゃ駄目だ」
願い。
本当の願い。
ひとかけらの幸福が、与えられますように。
強く生きて行けますように。
涙が零れませんように。
いつか自分が、自然にここに在る事が出来ますように。
幼い頃から、薬師神は何度もこの鳥居の上に石を投げてきた。
今、ここにある石のほとんどは、薬師神が乗せたものだ。
恐らく影平は、自分がたった一投でこの願掛けをやってのけた時にそれに気付いただろう、と薬師神は確信を持つ。
だが、彼は何も言わない。
そうしていてくれる事が、何よりもありがたい。
「お前と、お前の家族が幸せでありますように…って祈ったんだよ」
「うわっ!!!いきなり口に出すなよ!!叶わなくなっちまうんだろ!!」
「うるさい。近所迷惑」
薬師神はそういい捨て、竹箒を取った。
それを影平に押し付ける。
「暇なら掃除手伝って」
「俺、すっげえご多忙なんですけど?」
そういいながらも、影平は竹箒を握って階段を上がり始めた。
「ありがとう…来てくれて…」
先に立って歩く影平の背に。
聞こえない程度の小さな声で薬師神はそう呟いた。
「………別に…暇だし」
聞こえないと思っていた声は、影平に届いていた。
影平は辻褄の合わない言い訳をしてしまった事に気付き、口から出て行った言葉をかき消すように、しばらく竹箒を振り回していた。

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