捜査共助課3(短編小説)

□幸福の定義
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心が

満ち足りること


それを幸福という



崎田は、苛々としながら地検の通路を歩いていた。
いつの間にか。
本当に自分が気づかないうちに、世の中はさっくりと9月に入ってしまっている。
『担当を外れてくれないか』
仕事を終えようとしていた直前、上司に呼び出された用件がそれだった。
何の担当か、など、わざわざこちらから聞かなくても分かってはいたのだが。
無言で問いただした崎田に、彼は若干居心地が悪そうな表情を見せた。
『お前には、これから他の事案に当ってもらいたい』
まだ自分に逆らう余地があるのか、それとも既に決定してしまった事なのか。
それだけを問うた崎田に、上司は心底困った顔を作った。
『決定事項だ』
ならば、何故だと問う訳にもいかず。
崎田は無言で上司の部屋を出た。
それがほんの数分前の事だ。
4つ年上の先輩検事が今後あの事件を担当する事になる。
負けた気はしない。
そんな気持ちは全くない。
だがこれから自分の仕事場に帰るまでに、気持ちを落ち着ける事が出来るだろうか。
歩を緩めようと思うのだが、緩めてしまえば更に苛立ってしまいそうだ。
とにかく、同僚に当り散らさない程度には落ち着こう。
そう思いながら、崎田は歩いていた。
「ただいまっ!!」
少々乱暴に、自分に与えられている部屋の扉を開ける。
普段は一応温厚な崎田が、険悪な空気を連れて帰ってきた事に、事務仕事をしている男性がびくりと顔を上げた。
「お、かえり、なさい、崎田さん」
元々、大人しい性格の彼はまだ20代後半だ。
有能だが如何せん気が弱い。
それを恐がらせてもどうにもなるまい、と崎田は開けたままだった扉を極力静かに閉めた。
いい加減、蝶番に油をささねば、ギギギ、と軋んだ音を立ててうるさくてたまらない。
普段ならば聞き流せる程度の音が、嫌になるほど耳についた。
「沼田君、もう帰りなよ今日は。俺も帰る」
「ええ、え……?」
黒縁眼鏡の向こうから、怯えた眼差しで崎田を見てくる。
沼田に一度溜息をついて見せ、その後でようやく崎田は笑った。
「また明日から忙しくなるし!!今日は、帰っちゃおうよ。戸締り俺がやっとくから」
「……何かありました?」
気弱ではあるが、有能な男だ。
普段とは少し違う崎田の様子に、沼田は眉をひそめていた。
「何で?」
崎田は帰り支度を整えながら、沼田を見る。
「崎田さんが途中で仕事を投げるの、見たことないんで……」
「………」
投げたくて投げたんじゃない。
本当はそう大声で叫んでしまいたかった。
だが、崎田はそれも寸での所で我慢する。
「すみません、余計な事、言いました……じゃあ、お言葉に甘えて帰ります、ね」
崎田の鱗を逆撫でしてしまいそうな事に気付いたのか、沼田は慌ててバッグの中に荷物を詰め込み始めた。
沼田が今、机の上に出していた分厚い裁判資料。
その全てが、明日には無駄になってしまう。
いや、無駄になるというと語弊がある。
自分達は、蚊帳の外に追いやられてしまうのだ。
それを告げようかどうしようか、と迷ったが、崎田は結局黙っていた。
「そういえば崎田さん、誕生日だったでしょう、先月。俺、すっかり忙しくて忘れてて」
よっこいしょ、と若い風貌には似合わない声と共に、沼田は立ち上がる。
「……俺も今思い出したよ」
変に無駄な事ばかりを覚えている奴だ、と崎田は沼田を見て首を傾げた。
「遅ればせながら、お誕生日、おめでとうございま…す、ました?……お疲れ様!!お先に失礼します!!」
沼田はそう頭を下げ、逃げる様に部屋を出て行く。
それを見送り、崎田は大きな溜息をついてがくりと肩を落とした。
溜息をつくと、幸せが逃げていくらしい。
しかし、溜息には己を落ち着かせる効能もあるのだ。
結局崎田は職場を後にするまでに、7回の溜息を零した。



時間が取れたら久しぶりに会わないか、と彼から最後に連絡があったのは先月の事だ。
8月の終わりに、滅多に自発的に崎田とは連絡を取ろうとしない彼からメールが入った。
それに返信する事すら難しいほど、仕事に忙殺されていたのだが。
彼も、恐らく崎田は忙しいのだろうと思ってくれるくらいには崎田の仕事を熟知している。
正直、メールをもらっていた事さえ忘れかけていた。
連絡を取らなければと思いながら、相手も不規則な生活をしているために、タイミングを外してしまっていたのだ。
崎田は携帯を開き、メールの受信ボックスを呼び出す。
画面をしばらくスクロールさせると、彼のメールが出てきた。
本当に、そっけない一文だ。
彼、秋葉のメールはいつもそうだった。
必要な言葉しか寄越してこない。
地下鉄を降り、まだ昼間の熱気が残る地上へと上がる。
そして、しばし思案した後で、秋葉に電話をかける事にした。
メールでは時差がある。
今日は電話の方がいいと思ったのだ。
勤務が明けているかもしれないし、たまにある夜勤の日ならばこの携帯には出ないだろう。
「……はい」
留守番サービスセンターに転送されてしまうのではないだろうか、と思った7回目のコールの途中。
秋葉の声が聞こえた。
「よう、元気か?」
「……久しぶり」
携帯の向こう、秋葉の声が少しくぐもる。
「もしかして、起こした?」
「……うん…いいよ、もう起きようと思ってた」
この時間、19時過ぎだが、眠っていたというのなら、もしかしたら夜勤プラス残業明けだったのか。
そう問えば、正解だという答えが返ってきた。
「今日、会えないかな。話があるんだ」
話というよりも。
恐らく詫びという類の話になるのかも知れない。
相模の裁判から外れるのだと。
どう彼に言えばいいだろう。
当事者である、彼に。
「……いいよ。いつもの所でどう。そうだな…20時とか?」
秋葉の落ち着いた声は、もしかしたら全てを見透かしているのかも知れないと思わせる。
「うん。カウンターが空いてたらいいけどな」
「大丈夫じゃない?平日だし……」
了承の答えを返し、崎田は通話を終わらせた。
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