捜査共助課3(短編小説)

□無題
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「………」
影平は、胸のポケットから煙草を取り出した。
それに火をつけようとして、曇天から雨粒が落ち始めた事に気付く。
軽い舌打ちが無意識に出た。
この舌打ちはまるで、あの無愛想なパートナーと同じだ。
おまけに100円ライターの火がうまく点かない。
かちりかちりと数回。
ようやく頼りない火が点り、それを左手で包むようにしながら、影平はくわえた煙草の先に火を移した。
「今生の別れに一本吸うかあ?」
コンクリートに次々と水滴が落ちてきて、その場所を灰色に変えていく。
フェンスに背を預け、影平は右手にラークの箱を持ち、問いかけた。
そのフェンスの向こう側にいる人物に向けて。
17階建てのマンションの屋上。
影平には見えないが、恐らく目がくらむ程の高さだ。
パトカーと、救急車のサイレンの音が下から聞こえる。
今頃、気休めにすらならないマットを何処に設置するか、大騒ぎになっているだろう。
「………ない」
20代に見える、Tシャツにカーゴパンツというラフな服装の男は、小さく答えた。
「ああ?聞こえませんなあ!?」
影平は決してそちらを見ようとはせず、声を上げる。
「ったく。それで本当にここから飛ぶ気かよ」
「いらない!!!」
細身の男は、叫ぶ様に言う。
影平と彼を遠巻きに見守っていた警官達が、一瞬驚くほどの声だった。
じわりと動きかけた彼らを、影平は下がっていろというように左手で払う。
「お〜…今のはいい声だったなあ」
湿った空気に、紫煙は重く。
影平は再び軽い舌打ちをした。
マンションの屋上に人がいて、今にも飛び降りそうだという通報が入ったのは、今から1時間程前の事だ。
たまたま現場の近くにいた影平と秋葉が、最初にここに駆けつけた。
それで何故か、影平が彼の説得に当っているのだが。
大塚署員から見て、これほどのミスキャストがあるだろうか。
『てめえがやると引っ張られて一緒に飛ぶかもしんないだろ』
秋葉にそう言い、影平はのんびりと説得に当り始めた。
それは説得などというものではなく、どちらかと言えば、さっさと落ちろと言いたげなものではあったが。
彼はまだ、影平と背中合わせに辛うじてこちら側の世界にいる。
彼がその気になれば、ほんの一歩半踏み出せば終わる話だ。
「ほれ。どうすんだ」
がしゃん、と影平は右肘でフェンスを押す。
「うっわっ!!!」
彼はよろめいて悲鳴を上げた。
同時に、下にいる野次馬達からも悲鳴が上がる。
「てめっ何すんだ!!落ちるかと思っ……」
へなへなとその場に座り込み、彼が言葉を飲み込んだ。
影平も、彼に合わせてその場にしゃがむ。
「何で?だってお前、死にたいからそんな所にいるんだろ?雨も降ってきたしさ。早くしようよ」
影平は煙草をふかしながら言う。
「それでも刑事かよ……いいよな、人の税金で食わせてもらってさ。ダラダラ仕事しやがって」
彼の言葉に、影平は鼻を鳴らした。
「これでも一応刑事だし、俺、ダラダラしてるし。そこは否定しねえよ?」
影平の視界に、左からフェンスの向こう側を静かに歩いてくる秋葉の姿が映る。
秋葉が右の指先で影平に合図を寄越した。
(あ〜……命知らずの馬鹿がここにもいるし……)
ふう、と溜息を付き、影平は軽く目を閉じる。
「本当に死にたい奴ならさ。誰にも見つからずにやっちゃうと思うんだよね……」
彼の意識をこちらにひきつけるために、影平は秋葉がいる方向とは逆の、右側から彼に声を掛けた。
今の所、彼はしゃがみ込んでいる。
次のアクションを起こすまでには少し時間がかかるはずだ。
「本当に死んじゃう奴はな。こんな高さなんか、ちっとも恐くねえんだよ、多分」
「俺だって、恐くねえよ」
その言葉とは間逆に、彼の声は震える。
「朝からずーっと飛ぼうかどうしようか迷ってるのに?」
くすりと笑い、影平は空を仰いだ。
そろそろ本格的に身体が雨粒に打たれて冷たくなってくる。
短い前髪の先から、ぽたりと水滴が落ちた。
「俺……正直お前がどうしてこんな事してんのか、別に興味ないんだよな」
「てめえに分かってたまるかよ」
少しずつ、会話が成立し始める。
影平は秋葉に視線を向けた。
数メートル先まで近付いてきていた秋葉は、そこで足を止める。
「今、俺がお前の気持ちが分かるって言ったら嘘になる。俺は嘘を吐きたくないし気休めも言いたくない」
影平の携帯が短く音を立てた。
メールの着信だ。
のそのそと、影平は短くなった煙草をくわえたままでポケットを漁る。
「…………」
相手は梶原だった。
今背中合わせにここにいる彼の情報を流して来たのだ。
小首を傾げ、影平は携帯を閉じた。
「森岡、純っつーんだ、名前」
「……っだから何だよ」
影平はちらりと視線を落とす。
彼の右手が、後ろ手にフェンスに掴まっていた。
「死んだら、本当に楽になると思うか……?」
「……死んでみなきゃわかんねえよ……」
確かに、と影平は笑う。
死は時に甘美な誘惑だ。
「お前、神様って信じるか」
「は?」
秋の雨は冷たい。
紺色のスーツが、水を含んで黒く重くなっていく。
「俺は信じてないんだけどね……」
今年の自殺者は、過去最悪のペースで増えている。
ここでこの命を助ける事ができたとしても。
きっとどこかではいくつもの、新聞にさえ載らない扱いで、命が消えている。
それでも。
彼をここで引き止める事が出来なければ、刑事としてここに存在する資格も意味もない。
「信じる者は救われるって言うけどさ…」
影平は目を細め、くわえていた煙草を取ると携帯灰皿に押し付ける。
微かに空気に溶けずに残った紫煙を惜しむように視線で追い、その後で口の端を歪めて笑った。
「……っ離せよ!!」
背後で秋葉が彼を捕らえた気配がした。
それと同時に、秋葉とは反対の方向からもいくつかの足音が重なった。
やれやれ、と腰を上げ、影平はフェンスの方を振り返る。
秋葉に腕をしっかりと捕まれた彼は、雨に濡れて泣いていた。
「ここ、寒いしさ。俺、これ以上見世物になるのもヤだし。どっかあったかいとこで、ゆっくり話そうぜ」
初めて彼と影平は目を合わせる。
「フェンスに掴まって立って」
秋葉の声に、彼は大人しく従った。



「ああああ、もう!!俺、嫌!!こんな仕事、嫌っ!!!」
くしゃみを連発した後で、影平が叫ぶ。
夕刻。
雨は本降りになっていた。
「でも、ちゃんと話聞いたじゃないですか」
向かい側の席で、秋葉がそっけなく言った。
寒さのせいか、いつにも増して顔色は悪い。
彼を署に連行し、着替えをさせ。
家族に連絡をつけて、厳重注意という処分で釈放したのはつい先程だ。
あまりにも寒いので、こっそり暖房を入れた部屋。
影平は彼と数時間向き合った。
どうしようもない生き難さ。
後10年粘れば、きっと解決する方法も見えてくるのだろうけれど。
死に取り憑かれた心は、明日を望むことなど出来ない。
それは影平にもよく理解できる感覚ではあった。
一概に、自殺を悪だとか、心の弱さだけで片付ける事など出来ない。
どうしようもなく、そこにしか救いが見出せない事もあるのだろうと。
この仕事を続けているうちに、そう思うようになった。
ただ。
命あるうちに関わる事が出来たのならば。
それはこちら側に引き止めておきたいと切実に思う。
その切実さを表に現すのは、未だに気恥ずかしくてたまらないのだが。
「森岡君、最後は影平さんに笑顔見せたじゃないですか」
「ああ?そう?」
肩にかけた大判のタオルで顔を覆いながら秋葉が言った言葉を、影平は面倒くさそうに受け流す。
秋葉の隣で、梶原も一度くしゃみをした。
優も、森下もだ。
「こりゃあ明日はみんな仲良くインフルちゃんかなあ……?」
陣野が熱いコーヒーを飲みながら笑った。
「俺、明日休も〜っと」
影平が笑う。
「しゃれにならないかも……」
秋葉は梶原が淹れてくれたほうじ茶が入ったマグカップを両手で包み、うなだれる。
「影平さん、最後、何て言ってたんですか?屋上で……神様がどうとか…」
優がふと影平に問いかけた。
「あ?神様……?ああ…」
記憶を手繰るように影平は天井を見上げた。
「あ。神は信じる者さえ救わねえって……」
「ふうん……聞き捨てならんなあ……」
ぽん、と影平の肩に両手を置き、薬師神が呟く。
「もう一度言ってごらん?」
「何も言ってません……」
ぐりぐりと肩を掴まれ、悲鳴を上げながら影平は首を振った。

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