公安第一課3(裏小説)

□桜
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桜は嫌いか、と。
彼が問う。
開け放っていた窓から、風に巻き上げられた桜の花びらが時折入ってくる。
秋葉はそれを、何処か不思議な心持ちで見つめていた。
動かそうとした指先は、血に濡れ。
乾いた唇では何も言葉は紡げず。
秋葉はただ、彼を見て笑んだ。
彼もまた、そんな秋葉を見てひどく優しい笑みを浮かべる。
グラスから透明な液体を口に含み、床に横たわる秋葉の顎にそっと指をかけて上向かせた。
唇を重ね、少しずつ秋葉にその液体を流し込む。
それは何の味もなく、冷たいただの水のようだった。
いっそこのまま、息絶えてしまえばいいのに。
そう思えるのに、身体は口移しに与えられる水を求める。
秋葉の喉が動くのを確かめ、彼はもう一度その行為を繰り返す。
彼の唇が離れ、幾分呼吸が楽になり、秋葉は痛む肺に空気を吸い込んだ。
まだ貪欲に生を求める己の細胞に、生きるために酸素を巡らせる。
彼の肩越しに見た、白い天井。
舞い落ちてくる、淡い桜の花びら。
僅かに視界に入る、澄み切った青空。
「…さ…が…み…」
彼の名を呼ぶその声は吐息ごと彼の唇に塞がれた。
頬を撫でられ、その冷たい指先が熱を持った肌に心地良く、目を閉じてしまいたくなる。
微かな、油絵の具のにおい。
絡んでくる舌を伝い、口の中に冷たい氷が落とされる。
じわり、とそれが溶け始めるのを感じながら、秋葉はそっと目を閉じた。
相模の唇が首筋を這い、鎖骨を辿り。
やがて未だ塞がる事のない、左肩の傷口に触れる。
「秋葉………」
狂気を孕む声は、愛しげに秋葉を呼ぶ。
二度と消える事の無い、刻み込まれた傷跡。
焼け付く、所有の印。
「この傷を見る度に。お前は俺を思い出す」
血に濡れた相模の唇が、囁いた。
まるでそれは暗示のように、秋葉の身体に広がっていく。
「お前は永遠に……俺から逃れられない」
血の味の口付けを交わし。
「春が来る度に……狂えばいい」
秋葉の指先に触れた、桜の花びらまでが赤く染まる。
「狂えばいい……そして……」
喘ぐような呼吸の合間。
相模の言葉が耳の奥で何度も反響した。



閉じた瞼の裏が。
赤く赤く染まっていく気がして。
甘いはずの口付け。
唇から血の味がした。
「…………っ」
何処か遠くから、自分の声が聞こえる。
秋葉は目を開けた。
薄暗い部屋の中。
ぼんやりと白い天井が視界に映る。
はらり、はらりと。
桜の花びらが落ちてくる。
それに向かって手を伸ばそうとして。
手のひらが血に染まっている事に気付き、息を飲む。
あれは悪い夢で、目を開ければここは現実のはずなのに。
頬を撫でられ、左肩に触れられた。
今、自分に触れているのは一体誰なのか。
秋葉の鼓動が跳ね上がる。
「秋葉さん……?」
不意に、抱いていた秋葉に胸を押し戻され。
梶原が秋葉を呼んだ。
「…………」
秋葉の唇が震える。
何事か、梶原にも聞こえない声で言葉を紡ぎ。
宙に手を伸ばす。
「……秋葉さん…」
梶原は秋葉の唇をそっと塞いだ。
音もなく静かに狂って行く彼を現実へつなぎ止める為に、さ迷っていた秋葉の手を取った。
シーツの上に押さえつけた手首に、更に力を込めれば。
ようやく秋葉が握り締めていた手のひらが開かれ。
桜の花びらがはらりと床へと落ちた。
目に見えない花びらが、落ちたように見えた。
「……っ」
秋葉の目には、桜の花びらが見えているのだろう。
視線を揺らし、それを追おうとした秋葉を、梶原は押し留めた。
「秋葉さん」
それは。
細胞に刻み込まれた、記憶。
虚ろな秋葉の視線を遮り、梶原はそっと秋葉の頬に手を当てた。
冷たく、冷え切った身体を抱き締める。
「ね、え…………」
秋葉はまるで行為の続きを催促するように、両腕で梶原の肩に縋った。
「……桜…が……」
吐息が混ざった呟きの後。
秋葉の唇が綺麗な笑みの形に結ばれる。
梶原の腕の中で、少しずつ壊れながら。

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