公安第一課3(裏小説)

□渇望と切望
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「うわぁ、う〜わぁぁぁぁ、ちっちゃい!!可愛い!!何ですか、これ!!ええええ?触っていい?触っていいですか?」
ベビーベッドに寝かされた、生後ひと月の比呂の子供。
その寝顔を見て、梶原がはしゃぐ。
とはいえ、一応起こしてはいけないという事は分かっているようで、とても静かに。
「いいよ?」
比呂が、おかしそうに笑った。
「えええええ、ちっちゃい〜!!何、この手!!あ、でももう爪もあるんだ、すごい」
呟きながら、梶原は軽く握られた子供の手に人差し指で触れる。
「あ……ごめんなさい。勝手にはしゃぎ過ぎました」
ふと我に返り、梶原は頭を下げる。
秋葉の母親の周子が、テーブルの上に煎茶を淹れた湯のみを置いてくれた。
「あれ……秋葉さん、は?」
「庭にいるみたいだよ。唯と。しばらく帰ってこない、あの様子だと」
比呂が窓の外を指差す。
「唯ちゃんは、本当に秋葉さんが好きなんですね」
比呂に促され、梶原は座布団の上に座る。
「梶原君の事も好きみたいだよ?」
くすり、と笑い、比呂は湯のみを梶原の方へそっと押す。
周子は秋葉の様子を見に行ったようだ。
「すみません、いろいろお祝いまでいただいて」
「いえいえ…。良かったら使っていただければ……」
梶原が比呂と会うのは、久しぶりだ。
普段は、秋葉に内緒でメールのやり取りをしている。
今日も、梶原が秋葉にねだってここに連れてきてもらったという形ではあったが。
実際には比呂と連絡を取り合ったのは梶原だ。
そして何よりも秋葉の姪の、唯が。
秋葉に会いたがっていたのだ。
それを告げると、秋葉は少し表情を動かした。
本当は、秋葉にも分かっていたはずだ。
これは仕組まれた事なのだと。
だが、そうでもしなければ、きっと。
秋葉はこの場所に足を踏み入れる事も出来なかっただろう。
「ごめんね、梶原君。本当にいろいろ……迷惑かけて」
比呂は呟き、温かい湯のみを手のひらで包む。
外は快晴で、気温は平年並みだ。
暖かいはずなのに、何故か寒い。
外から、唯の楽しげな声が聞こえた。
秋葉と家族の間に辛うじて残っていた絆。
それが、ふつりと切れてしまいそうで。
恐い。
きっかけは、秋葉の伯父の一言だった。
「あの伯父はねえ……昔からちょっと…何と言うか…」
言葉を探し、比呂は視線を揺らす。
「貴美が死んだ時も、柊にひどい事言ってね……あれからあいつ、絶対貴美の命日にはここに来なくなった」
命日に、と限定するよりも。
一切実家に足を踏み入れなくなった、と言った方がいいかも知れない。
「ごめんね。梶原君を使っちゃって」
「いえ……いいんです、そんな事は」
やんわりと首を振り、梶原は笑んだ。
今は、たとえ歪なものだとしても。
秋葉をこちら側へ繋ぎとめる物が必要なのだ。
その事を比呂は誰よりも分かっている。
「ちゃんと、話せたらいいんだけど……」
比呂の言葉に梶原も顔を曇らせた。
何よりも気になるのは、秋葉と周子の間に全く会話が無い事だ。
「母さん?」
庭から戻り、そのまま台所へと向かおうとする周子を、比呂が呼び止めた。
「…………」
周子は僅かに微笑み、静かに首を横に振る。
からり、と庭に面した窓が開き、唯を抱いた秋葉が姿を見せた。
一瞬比呂と目が合い、曖昧に視線を外していく。
本当に。
この家族を繋いでいるのは、強固で、か細い糸。
まるで秋葉の心の様だ。
梶原は唯に冷ましたお茶を飲ませている秋葉を見つめた。
「奏太には、会わない?」
比呂は静かに秋葉に問う。
まだ、秋葉は隣の部屋で眠る甥に触れていなかった。
「…………会えない」
秋葉は小さくそう呟いた。
見たくない訳でもなく、会いたくない訳でもない。
ただ、会えないのだと。
秋葉は言う。
「恐い……」
そして、秋葉は密やかに言い。
比呂に向かって笑った。
膝に乗せた唯を少し強く抱くと、その黒髪に頬を寄せる。
「またね?唯……もう、帰らなきゃ」
「うん……」
唯も素直に秋葉の膝から降りた。



足取りは重く。
隣を歩く秋葉からは、相変わらず何も伝わってこない。
天気はいい。
いいのに、寒い。
何処か現実から自分を切り離そうとする秋葉の空気。
曖昧に、しかし幾重にも透明なフィルターで自分の心を包み隠そうとする。
やはり、急かし過ぎたのかも知れない。
梶原はそう思った。
きっとそうなるだろうと頭の何処かでは思っていたが、僅かに生まれた後悔だった。
一言も話さないままマンションまで帰り、エレベーターの中で、初めて梶原は秋葉の手を握る。
冷たく、熱を持たない手のひら。
いつもならば指先が梶原の手を握り返してくるのに、秋葉にはその力すらないようだった。
誰に見られてもいい。
そう思い、エレベーターを降りた後も梶原は部屋に着くまで秋葉の手を引く。
秋葉が鍵を開け、扉を開いた。
部屋へと続く扉を全て閉めているために、玄関と廊下は薄暗い。
明るい外から、暗い場所へ。
足を踏み入れ、秋葉は深い吐息を落とす。
「秋葉さん……ごめんなさい」
緩慢な仕草で靴を脱ぎ、廊下へ上がった秋葉は。
その言葉に微かに笑ったようだった。
「違う……謝るのは、俺の方……」
言葉の途中、秋葉の身体がゆらりと揺れる。
梶原は、秋葉の身体に手をかけた。
「大丈夫だから……離して」
秋葉の苦しげな呼吸は、発作の前触れだ。
それでも秋葉は、梶原の腕を拒もうとする。
震える指先が梶原の身体を押した。
「大丈夫……もう同じ事、繰り返さないから」
穏やかな言葉とは裏腹に、秋葉は大きな呼吸を繰り返す。
手を貸さなくていい。
秋葉は梶原にそう言っているのだ。
「ごめん、梶原……嫌な思い、させて」
呼吸の合間に咳き込みながら、秋葉は無理に言葉を発する。
梶原は、秋葉の身体を抱く。
廊下は狭くて暗い。
この閉塞感が秋葉を更に混乱させる。
梶原はその場に秋葉を座らせると、部屋へと続く扉を開けた。
カーテンを閉めていても、まだ明るい。
振り返ると、秋葉は両手で顔を覆っていた。
「もう、わかんない……生きろって言われたり、死ねって言われたり……」
咳き込みながら、秋葉は笑う。
そこには自分の意思が欠落している。
まるで生きたいという言葉を発する事は、許されないとでも言うように。
梶原は秋葉の傍らに戻り、その身体を抱き締める。
「秋葉さんは、どうしたいの」
生きたいのか。
死にたいのか。
生きたいのなら、手を差し伸べよう。
死にたいのなら………。
もし本当に秋葉がそれを望む時は。
自分は手を貸すだろう。
梶原の問いに、秋葉は首を振る。
「答えて、秋葉さん……」
「………た、い…」
秋葉は震える声で呟く。
生きたい、と。
誰にも、その思いを侵害する事など。
本当は出来ないのに。
秋葉の心のひび割れた箇所から、様々な言葉が入り込んでいく。
幾度も幾度も、それを振り払いながら。
それでも秋葉は生きたいと望んでいる。
それならば。
「秋葉さん……」
それならば。
秋葉の生きたいという渇望に。
生きて欲しいという切望を重ねよう。
梶原は秋葉の名を呼び、その震える背を撫でた。




さくら横ちょう

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