東京拘置所

□美貌の青空〜青い月〜
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冴え冴えとした月光が夜道を照らしている。
灯りのひとつもないのだけれど、別に不自由は無い。
月の光がくっきりと辺りの風景を浮き上がらせていた。
私はのんびりと急いでいた。
急いでいるのにのんびりとした心持ちなのは、少しおかしいかも知れない。
だが、私はやけにのんびりとした気分で先を急いでいた。
ただし、周囲へ……特に背後への神経は研ぎ澄ませたまま。
別段、私をつけて来る気配は感じない。
それでも私はひどく過敏に背後を窺っていた。
仕事柄、と言おうか、それとも職業病とでも。
しかし今夜は月が青い。
まん丸の月は、8月最後の……ああ、もう月が変わってしまった。
今年の夏は格別に暑かった。
それでも。
昨年の夏に見た業火を超える熱さを、私は知らない。

今はもう、何もないその場所。
私は空を見上げる。
月は真上に見えていた。
あまりに明るいその光に、今夜は星も見えない。
り、り、と虫の音が聞こえる。
そういえば、あんなに喧しかった昼間の蝉も、ぱたりと鳴かなくなった。
涼しい夜風が吹き抜ける。

あの夜。
ここにあった娼館に立ち寄ったのは、偶然でも戯れでもなかった。
仕事上、私がその役目を……半ば押し付けられたのだ。
それはそうだろう。
誰が仕事とはいえ男娼の館になど行きたいものか。
一番それらしい風貌の者、という事で自分が選ばれたことを私は知っている。
内心はひどく複雑だった。
その思念は今も、心の中に何となく小さな抜けない棘のように残っている。
跡形も無く焼け落ちたあの娼館。
その跡地は、未だ更地のままだ。
時折ここを訪れると、まだあの日の燻りが残っているように思う。
この館の主は、男娼として使えそうな人間を見つけては、様々な手を使いそれらを拐していた。
時には家族を皆殺しにしてまで。
だがそれは男娼本人には恐らく隠され、身内を質に取られた形で彼らはここで働かされていた。
逃亡しようとする者と、使い物にならなくなった者には容赦はなく制裁が下されて。
一体どれ程の人間が命を落としたのか、1年が経つ今でも、まだ全貌が見えてこない。
あと少し。
あと少しで追い詰める事が出来たのに。
私は軽く唇を噛み締める。
焼け跡から発見された遺体の中に、主兄弟は居なかった。
逃げ遂せたのだ。
そして今も何処かに潜んでいる。
そして。
あの、冷たい死人のような目をした相模という男は。
きっと今も、ひとりの青年を歪な愛情で思い続けているに違いない。
そして相模には、殺人の容疑が掛けられている。
彼を捕らえることが私の仕事だ。



「ただいま」
からり、と引き戸を開けて私は小さく呟いた。
鍵はかかっていなかった。
狭い家だが、1人で住まう分には何の不自由もなかった。
埃っぽいたたきを見下ろすと、見慣れたぞうりが行儀悪く脱ぎ散らかしてある。
奥の部屋で、人の気配がしていた。
「また、勝手に上がって」
いくら背後の気配に神経質になっていても、いくら旧知の仲とはいえ、家を簡単に暴かれているようではいけない。
自戒をこめた溜息は、しかし元同僚である彼には届かないだろう。
「だって、鍵はもらっているし。お前の留守中になにかあっても困るだろう?」
「確かに気にかけてやってくれとは頼んだけれどね。それを屁理屈というんだよ、遼」
縁側に我が物顔で居座り、月を肴に手酌で酒を飲んでいる男に向かい、私は苦言を呈した。
「……その酒、お前と飲もうと思って取っておいたのに」
苦言というよりも、愚痴に近い。
この男には苦言も愚痴も通用しないのではあるけれど。
「ついでに夕餉もいただいといた。用心棒代ってことでいいだろう?」
それまで纏っていただらけきった空気を一瞬で払う、眼光の鋭さ。
私は眉をひそめた。
「見慣れない奴がいたから、ちょいと締め上げてやった。でも、すぐにお前の部下に渡しといたよ?おおかた、子猫を狙って嗅ぎまわってるんだろうさ」
ちらり、と見上げる目はからかい半分。
後の半分は。
「昔から、厄介な事が好きなんだよ、私は」
畳の間から一段降りた土間にある、小さな台所。
汲んでおいた水で、私は手を洗う。
「知ってるよ。だから今も、厄介なものを背負い込んでいるんだろう」
くくく、と忍び笑い。
そう、私は。
他人から見れば厄介なものを、この家の中に置いている。
「煙で目をやられてしまっているからね……医師には見せているのだが」
「ありゃあ駄目だ、煙のせいじゃねえ」
「遼」
しい、と私はひとさし指を唇に当てる。
「でもあいつ、ようやく俺に慣れたみたい。今日は引っかかれなかった」
「…ああ…あの子はよぅく人を見るからね」
「どういう意味だ」
無骨な湯のみを手に、座敷に戻る。
縁側からは、涼しい風が吹きこんでいた。
「ん」
徳利から澄んだ液体が湯のみに注がれる。
「ありがとう」
私は手の中に納まったそれを見つめた。
ゆらゆらと、小さな水面に月が映って揺れている。
「あの子には、帰る場所が無いからね……」
「そういう無用の情けを不意にかけちまう所が、お前さんの厄介な所だ。普段は誰よりも冷血なくせに」
一言余計だ、と私は鼻を鳴らした。
そして湯のみの中に納まった月を、酒と一緒に飲み干す。
じわり、と熱が身体に染みた。
「いや……本当は帰る場所はあるんだよ。でもね……」
「禍根は全て断っておきたいんだろう?……どうしてそんなに情が移っちまったのかねえ……お前らしくもない」
「さて、どうしてだろうね?でもあの子がここにいてくれると、楽しい事もあるんだよ。目が見えないなりに、いろいろと動いてくれるからね。話し相手にもなってくれるし」
自分でもよく分からないのだ。
何故、彼をこの家にかくまっているのか。
「話し相手なら、俺がいるのに。……ひょっとして、抱いた?」
「馬鹿を言うな」
茶化したような言葉に、一瞬だけ本気で怒りを露わにする。
「……さて、どうしてだろうね」
もう一度、そう呟いて。
私は立ち上がり、彼がいる部屋へと向かった。



あの娼館では、柊という名で働いていた彼だった。
その後の調べで、本当の名は分かったけれど。
彼の家族は誰ひとり居なくなっていた。
相模という男は、柊に恐ろしい程の執着を見せていた。
誰にでも抱かれる男娼として柊を扱いつつ。
誰よりも柊を愛していた。
その愛の形が、常人には理解されないだけで。
相模が放った火は、あっという間に館を飲み込んだ。
相模の手を振りきり逃れた柊は、幸運にも私の上司に保護された。
両の目を傷めていた柊を、何故だか私が引き取ったのだ。
引き受けた、というほうが正しいかもしれない。
当初は目が見えないのは煙のせいではないかと言われていたのだが。
どうやらそれだけでもないらしい。
「………ひいらぎ」
襖を開けて彼を呼ぶ。
彼はいつ眠るのだろう。
私はこうして様子を見る時、彼はいつもきちんと座っている。
朱色の格子の向こうに座っていた、あの時のように。
本当の名を呼ぶ事を拒んだのは、彼の方だ。
だからいまも私は、彼を『柊』と呼ぶ。
「今日は、月がきれいだよ」
「………ええ……なんとなくわかります…」
柊は掠れた声で答えた。
両の目はきちんと開かれているが、焦点があっていない。
ただ、最近は光などがぼんやりと認識できるようになったという。
「酒でも飲むか?月を愛でるにはちょっとがさつな奴がいるけれども」
「いいえ……」
近寄って、初めて分かる。
頬に残る涙の跡。
「あんまり泣いてはいけないよ、障るからね」
そう諭すように言うと、柊は僅かに笑った。
柊の涙の理由は分かっている。
柊が泣くときは、決まって化粧師見習いの男を思い出している時だ。
明るく、真っ直ぐな心根の持ち主だ。
今も彼はこの街にいる。
火災の跡から櫛を拾い上げ、両端が焦げた赤い紐を握り締めたあの化粧師は。
そう、もう見習いではないけれど。
私は密やかに、彼の身辺も気にしている。
私ではない、私達が、だ。
だが今はまだ、化粧師には柊の生死を含めて情報を与えることは出来ない。
柊と化粧師を手の中に置いている限り、相模への糸は必ず繋がる。
そんな打算も、ほんの僅かだが私の中には存在するのだ。
そしてきっと、それを柊は見抜いている。
「いずれ…会える時が来るから」
その時が来たら。
お前はもう一度、心から笑えるだろうか。
「大和」
名を呼ばれ、私はそちらに戻る事にする。
襖を閉じる音に紛れ、柊の声が聞こえた気がした。
「梶原」
と。



狂おしい夏だった
青空も 声も
小さな死のように

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