東京拘置所

□美貌の青空〜秋〜
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つないだ手に 
夏のにおい
海へと続く道
光る波とひとひらの雲
とおい蝉時雨

山が燃えて草は枯れて
瞳に秋の色
風が立てば心寒く
陽だまりの冬

求め続け待ちぼうけの
あなたのいない季節
うけとめては
とけて儚い
春のぼたん雪

水に落ちた 
赤い花よ
想いと流れてゆこうか


さくらさくら 
淡い夢よ
散り行く時を知るの

胸に残る 
姿やさしい愛したひとよ

さようなら さようならと
あなたは手をふる
鈴の音が唄いながら 
空を駆けてく



夏の終わりと、秋の始まり。
その境目。
雨の後の、蒸した空気。
それでもその温度は真夏のものとは違っている。
遼は顔を上げて、雨雲が切れた色の薄い青空を見上げた。
夏の間、深い深い青色だったそれは、少しずつ水で溶いたように薄まっていく。
背の丈ほどもある萱は、遼にとってはさほど邪魔でもない。
緑色に淀んだ池にかかる石の橋を渡り、遼は周囲を窺った。
百日紅の花が何処からか風に乗って飛んでくる。
手入れをする者もなければ、花を愛でるという本来の目的では訪れる者もない荒れ果てたその場所には、赤とんぼの群れがのんびりと飛んでいた。
「ああ……間に合った」
目当ての花を見つけ、遼は独り呟く。
脆いその花を落とさぬように。
遼は片手に持てるだけ、その花を摘んだ。
後は、急いで帰るだけだ。
手折った花が、しおれてしまわぬように。


数日前から体調を崩していた柊は、今日もまだ起き上がれずにいた。
日中は大和のいない家にひとり、耳を澄ませて周囲の気配を窺っている。
うとうとと眠っては、嫌な夢を見て目を覚ます、その繰り返し。
眠っても、目覚めていても。
柊の世界は暗闇に閉ざされている。
その事実をとうに受け入れてはいたが、それでも時折その事がどうしようもなく恐かった。
現実の世界の色を見る事など今は叶わないのに、夢の中では時に全てが鮮やかで。
蝋燭の向こうに見えた、あの男の姿。
無理矢理に触れられた、あの手の感触。
ああ、まだ夢を見ているのだ。
だからこんなにも息苦しい。
「………」
ふと人の気配を感じ、柊は身体を硬くする。
何とか起き上がってみたが、心臓の音がうるさくて足音がよく聞き取れない。
「ごめんよう」
陽気な声が聞こえ、ようやく僅かに安堵する。
遼だ。
襖が開かれると、ひんやりとした風が入ってきた。
「なんだい、障子も開けずにいたのかい」
足元の辺りを、大股で通り過ぎる気配。
からからに乾いた唇を開こうとしたが、うまくいかなかった。
昼頃に大和が一度戻ってきて、枕元に水を置いてくれていた。
それを探して右手をそっと伸ばす。
「あぶねえよ」
不意にその手を取られ、柊は思わず悲鳴を上げた。
闇雲に手を振り回し、自分を捕らえる手から逃れようとする。
がりっと爪が皮膚を引っ掻く感触。
柊は動きを止める。
「恐い夢を見たんだな?よしよし。水か?飲めるか?」
引っ掻かれた事など気にも留めていないように、もう一度遼が柊の手を取る。
そして、湯のみに指先を触れさせた。
遼に支えられ、水を一口含んでゆっくりと飲み込む。
それで随分と楽になった。
「遼、さん……」
「おう。これでお前さんに引っかかれたのは6度目だ」
からからと笑い、遼が座敷を出て行く。
なにやら雑な物音がして、その後でまた、遼の足音が帰って来た。
微かに、甘いにおいがする。
目が見えていた頃ならば、恐らく気付かずに過ごすほどの。
淡く、微かなにおい。
「聡いねえ……」
柊が気付いた事を悟った遼が、そう呟く。
「これが何だか分かるかい」
「……いいえ……花、でしょうか」
遼が沈黙したので、それが正解だと柊は思う。
「どんな、花ですか……」
「………そうさなあ……」
柊の問いに、今度は遼が考え込んだ。
「月に合う花……夕焼けの終わりの、赤と紺が交わる色……かな」
遼は柊が座敷の中を動いても差し障りのない場所に生けた萩の花を眺め、それをそう表した。
萩、と答えてやれば話は早いのだろうが。
柊のために敢えてそうしなかった。
柊はただ、微笑んだ。
遼にその表情を見られている事を、ふと失念したかのような笑みだった。
ここにはいない、誰かの事を考えている笑みだった。



「何処に出かけてきたんだい」
大和が笑いながら遼に問う。
「ふふ…秘密」
「もう、秋だねえ……」
そっと指先を伸ばした先、遼の少し固い髪の毛に絡んだ、赤紫色の小さな花。
「それにしても。お前さんにしてはうまい事を言ったね。夕焼けと…何だったかな」
縁側でいつもの様に2人は酒を酌み交わす。
「夕焼けの終わりの、赤と紺が交わる色」
大和の言葉に、つまらなさそうに遼は答える。
「お前さんがそんなに風流な言葉と使うとは、知らなかった」
「……ふん。向島の姐さんの受け売りさ」
大和の手元にある酒を奪い取り、遼はそれを煽る。
遼の看病のおかげか、柊の具合は随分と良くなっていた。
日が暮れる前に帰宅してその様子を窺った時に、柊のいる座敷に萩の花が生けてあるのを見たのだ。
柊は横たわったままではあったが、嬉しそうに笑って、遼が手折ってきてくれた萩だと言った。
「あいつ、外に出られねえからさ」
遼はお節介焼きの癖に、素直にそれを表すことが出来ない。
大和にとっては、そんな不器用なところも実は愛おしいのだが、それはあまり口にしないでおく。
「ありがとう。柊にも季節を教えてくれたんだね。でも、あんまり物騒なところには行くんじゃないよ」
「……一番物騒なのは、あの子猫さあ。ほら、これ。どうしてくれる?」
遼が大和に自分の右手を差し出す。
「なんだい、おや…また引っ掻かれたのか」
全く、懲りない男だ。
大和は小さく溜息を吐く。
「柊は目が見えないのだから、あまり恐がらせないでくれと頼んでいるのに」
「俺はちゃんと気をつけてるんだ。あれはお前の躾が足りないせいだよ?」
「お前さんが柊を恐がらせるからいけないんだよ、遼。私は一度もあの子に引っ掻かれたことなどない」
大和の苦笑は遼に黙殺された。
「これ。どうしてくれる?」
「……では、こうしよう」
差し出されたままの右の手を取り。
大和は僅かに血が滲んだその場所を、ぺろりと舐めた。

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