東京拘置所

□美貌の青空〜髪を梳く指先〜
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彼は柊の客だった。
ただの客ではない事が分かったのは、あの娼館が焼け落ちた日。
何らかの事情があって、娼館を調べていたのだろう。
あの夜から、梶原は柊を探し続けた。
探しながら、何処かで半分、諦めかけていた。
もう、会えない。
あの客の名は『薬師神大和』と言った。
火災の後、時折梶原の身辺を気遣うようなそぶりを見せていた。
「まだ、あの子を探しているのかい」
「………約束をしたので」
諦めかけたところへ、他人からまだ探すのかと問われると、無性に腹立たしい。
梶原は顔をしかめ、低く呟いた。
「約束?」
彼は少し面白そうな目をした。
「氷を、食べに行こうって」
口に出せば、まるで子供のよう。
ずっと堪えていた涙が両眼を覆う。
彼はそれを見つめ、ゆっくりと瞬きをした。
何かを考えているようだった。
「………何を見ても、声を出してはいけないよ。それが約束できるかい」
「……できません、そんな約束」
どうせ彼から見れば、こんな風に感情を露わにするのは子供も同然なのかも知れない。
そう思えば、何も取り繕う事もなくなる。
梶原は涙を拭うと、そう反抗した。
「確かに」
彼は再び楽しげに笑う。
そして、梶原に告げた。
「おいで」
と。




外からの風が、少し湿り気を帯びた。
それと同時に、僅かばかり涼しくなる。
どこか遠くで雨が降り始めたのだろう。
湿った空気を肌で感じ取り、柊は顔を上げた。
「……雨……」
大和は傘を持っていっただろうか。
柊は立ち上がろうとして、しかし大和を迎えに外に出る事など今の自分には叶わないという現実を思い出し、落ち着いて座りなおした。
柊はこの家の中からほとんど出た事がない。
相模の手から逃れることが出来たのは大和と彼の上司のおかげだ。
更に、大和にはこうして匿ってもらっている。
不自由な身体だが、受けた恩に報いたいと思う。
「ただいま」
玄関の方から声がした。
声は大和のもの。
足音は3人分。
珍しいな、と柊は畳の上に手のひらをついて、周囲を探り確かめてから立ち上がる。
しかし、柊が襖に手をかけるよりも早く、外側からそれが開いた。
「ただいま、柊」
「おかえりなさい、大和さん、遼さん」
あとひとりは。
分からない。
この家には、遼と大和の上司の他には誰も訪れた事はなかったから。
「相変わらず聡いねえ、お前さんは。いい子いい子」
がしがしと頭を撫でるのは遼。
以前ならば触れられるのが恐くて、彼の手を引っ掻いていたところだ。
「こら、遼。柊が恐がっているよ」
大和がやんわりと遼をたしなめる声に、柊は微笑んで首を横に振った。
「お前の髪が伸びてきたからね。ちょっとお節介すぎるかとは思ったのだが……」
「………」
髪、と言われた瞬間。
柊の表情が曇る。
しかしそれは一瞬の事だった。
今、柊には自分がどのような容姿になっているのかという事さえ分からない。
大和がそうしろというのなら、それが正しいのだろう。
そんな、僅かに諦めにも似た表情。
それを見て、大和は困ったように笑った。
「少し切るだけでいい、前髪は伸びすぎると目に入るからね」
「すみません……ありがとうございます」
諭すように言うと、柊は頷いた。



ごめんなさい、大和さん。
本当は、切りたくないんです。
もう、これだけしか。
梶原との思い出が無いから。



極力、感情を押し殺す。
雨のにおいを嗅ぎながら、柊は唇を噛み締めていた。
大和と遼がここに連れてきたのなら、今背後にいる男は信頼できる人間に違いない。
それは分かっているのだが。
男は無言のまま、道具を準備しているようだった。
かたん、と木箱が開く音がする。
聞きなれた音だった。
柊は梶原のことを思い出す。
「あの……」
男が無言なのは、もしかしたら自分のせいで機嫌を損ねたのかも知れない。
そう思い、柊は思い切って口を開いた。
男は何も答えなかった。
ただそっと、柊の髪に櫛を通す。
何度も、何度も。
髪を梳かれているうちに、柊はふと息を飲んだ。
振り向いたところで、男の顔が見えるわけではない。
こめかみから耳、首の筋を、髪を掬う左手の指先が撫でる。
柊はその手を掴まえた。
困惑したように、その左手は柊の肩に置かれた。
「………梶原……」
覚えている。
彼の髪の梳き方。
この指と手。
「梶原」
逃すまいと、柊は必死で男の手を掴む。
涙が溢れて止まらなかった。
「………柊さん」
小さな小さな声が、柊の耳に届いた。
一番聞きたかった、梶原の声だった。



「ほらな?あいつやっぱり口を開いちまったじゃねえか」
ぺたりと襖に右耳を押し付けている遼が、大和を振り返る。
「遼。聞き耳をたてるのはやめなさい、はしたない」
四人分の茶を準備しながら、大和は顔をしかめた。
「いいんだよ。まず柊が梶原の事を分かったのだからね」
二人を別々に守るよりも、いっそ目の届くところにいてくれた方が楽といえば楽なのだ。
それは取ってつけたような理由ではあったが。
「ふぅん。でもまあ、きっともうすぐ柊の目はよくなるぜ?賭けてもいい」
「そうかい。では、何を賭ける?」
茶葉を入れた缶を振る大和に、そっと遼は近付いた。
「俺」
「それでは全く賭けにならないじゃないか」
耳元でそっと囁く遼の口を、大和は自分の唇で塞いだ。

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