東京拘置所

□美貌の青空〜欲求〜
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朝晩の冷え込みが厳しくなってきた。
とはいえ、まだ昼中、陽が差している間は僅かに暖かい。
しかしそれでも。
(まぁたこんな所で座ってやがる、この子猫は)
遼が大和の家を訪れたのは、もう陽が傾こうかという刻限。
辻の向こうで幼子が戯れる声が響いている。
はやくおかえり、という声。
夕餉のにおい。
そんな生活の気配から、ふつりと切り離されたように。
柊は縁側に座っていた。
庭の方を向いているので、表情は分からない。
遼がここにいる事に気付いているのかいないのか。
身動ぎもせずにいる、その左肩には赤蜻蛉。
「……一体いつからここにいるんだい」
風邪を引かせると大変だと思い、遼はそっと柊に声をかけながら彼の隣に座る。
「遼、さん……」
少し驚いたような声を上げた柊は、床の上へ左手を這わせる。
遼が何処にいるのかを知りたいのだろう。
それを察して、遼は軽く柊の手の甲を叩いてやる。
「赤蜻蛉が、いるでしょう?ここに」
微かに顔を動かして、柊は自分の左肩を示す仕草をした。
「見えてるのかい」
もしかして、随分と具合がよくなってきたのだろうか。
そんな事を思ったのだが、柊の寂しげな笑みがそれを否定した。
「そんな気がして。何となく動けずにいました。……でも、以前よりは随分明るいような気がします」
梶原と再会してから。
柊は少しずつ笑うようになった。
「遼さん……ちょっといいですか」
「ん?」
柊が左手を持ち上げる。
赤蜻蛉はふわりと飛び立った。
柊の細い指先が、顔を寄せた遼の髪に触れる。
僅かに戸惑ったが、子猫のしたいようにさせておけばいいだろう、と思い直す。
「………」
柊は納得したように笑う。
そして次は耳。
柊の指のあまりの冷たさに、遼は思わず首を竦めた。
人差し指は顎の骨をなぞり、唇に触れる頃には中指と薬指がそれに添う。
鼻筋をなぞり、今度は両手の指先で眉毛と目にそっと触れられた。
「何だよう……」
ひどくくすぐったくなって、遼は柊の手首を捕まえた。
「………ごめんなさい。遼さんの顔だけ、分からないから……」
梶原も大和も、柊が視力を失う前に出会っているために、その姿は恐らく彼の記憶に留まっている。
しかし遼は違う。
これまでは声と気配だけを覚えていたが、ここに来て姿形を知りたいという欲求が生まれたのだろうか。
「見えるようになったら、好きなだけ拝めるよぅ?」
くくくく、と笑うと、柊も楽しげに笑う。
「………ただいま?」
ふと背後から大和の声が聞こえた。
「あ。その声は妬いてる声だ」
遼は捕まえたままの柊の手を引き寄せた。
勢いで柊は遼の胸元に寄りかかるような姿勢になる。
「残念ながら、私はそんな事では妬かないねえ。まあ、この子はどうだか知らないけれど」
大和の背後から、ひょこりと梶原が顔を覗かせた。
「おやぁ……」
遼が意地悪く笑みを浮かべる。
力を込めて抱き締められ、柊は首を振ってその腕から逃れようとした。
「遼、離しなさい」
縁側へと足を進めた大和が、こつんと遼の頭を叩く。
「ごめんよ、柊」
大和が苦笑交じりに遼の腕を解く。
自由になった柊は、今度は反対側へと引き寄せられた。
梶原の腕だ。
柊はそっと身体から力を抜いた。
「あ。妬いてる。梶原が妬いてる」
「遼」
大和の腕が遼の首に緩く巻きついた。
「あんまり私を妬かせるんじゃないよ」
密やかな囁きは、遼だけに届いた。

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