東京拘置所

□美貌の青空〜光〜
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「柊さんに初めて会ったのは、あの館の蔵の中でした」


梶原が呟いた。
小さく狭い庭に出て、なにやら遼とやりとりしている柊の姿を目で追いながら。
大和はその視線を追い、それからゆっくりと梶原を見る。
沈黙がどれほど続いても気にはならなかった。
むしろ、その沈黙が梶原には必要な時間なのだろうと思っていた。



足を踏み入れると、まずその暗さに驚いた。
明かりを取るための小さな窓はひとつふたつあるはずだった。
しかしそれさえも閉じられている。
梶原はその蔵の中で何が行われているのかを知らなかった。
普段からその窓が開けられている様子はなかったが、まさかそこに人が入れられているとは思わなかった。
ひやりとした冷たい、僅かに湿った空気。
足元に気をつけるように言われ、躓かないように歩いた先には不安定に揺れる蝋燭の灯りがひとつ。
その灯りが届くぎりぎりのところに、彼が膝を抱えて震えていた。
「少し急に決まったのだけれど、この子は今日水揚げなのですよ。綺麗にしてやってくださいね」
館の主人がそう言った。
「とても上玉でしょう?旦那衆がなかなか譲らなくてねえ……」
梶原は、この主人の笑みが嫌いだった。
師匠からは、ここでの仕事で一番肝心なのは必要無い事は右から左へ聞き流しておく事、何を見ても心を動かさない事だと言われている。
「柊に化粧を」
主人の片腕であり、弟だという噂もある相模という男がそう命じた。
彼の名を、梶原はその時初めて知った。
だが、梶原は困ったように相模を振り返る。
「こんな暗い場所では化粧などできません」
全く、師匠にも困ったものだ。
師匠はこの男達を毛嫌いしているから、こんな厄介な仕事を自分にさせるのだろう。
と、梶原は内心でほんの少しだけ怒りを覚える。
「お前の腕では無理だ、という事か」
相模に言われ、梶原は更に眉をひそめた。
だが、それ以上の感情を表に出す事を己に禁じ、代わりに梶原は微笑んだ。
「その通りです。師匠ならば問題なく出来るのでしょうけれど、生憎今日は師匠が不在でして。蝋燭では肌の色が分かりませんし……あの小さな窓を開けたところで明かりの量も知れています。困りましたね、これでは刻限に間に合わないかもしれません」
「………どうしろと?」
無表情だった相模が、不愉快げに表情を動かした。
「今日は天気も良いですし。できればお庭の築山で」
梶原がにこりと笑うと、主人が参ったとでも言うように笑った。
「いいでしょう。久しぶりに外の空気を吸わせてやるのも慈悲というものです」
梶原は、許しを得て柊に近付いた。
気配を感じたのか、柊の右足が畳の上を滑る。
もう後ろには逃げる場所などないのに逃げようとしているのだと察し、梶原はそっと柊の肩に手を伸ばした。
「柊さん。外へ行きましょう」
薄い襦袢を一枚羽織った柊は、やはり震えていた。



蔵の重い扉を開けると、目が眩んだのか柊がよろめいた。
その腕を支え、梶原は殊更にゆっくりと歩く。
この館は広い庭をぐるりと囲むように建てられている。
その庭の片隅、新緑の桜の木陰。
ちょうど良い高さの庭石の上に柊を座らせ、梶原は彼の顔をよく見ようと膝を折る。
柊は決して梶原と目を合わせようとしなかった。
唇を噛み、俯いている。
「柊さん…俺は化粧師です。あ…まだ見習いですけど…梶原といいます」
努めて明るい声で告げたものの、やはり柊からの反応は無かった。
思えば、いつも師匠について回っていた梶原は、こんな風に男娼と接する機会はまだ無かったのだ。
この館にいる男娼のそれぞれの事情は知らないし、知らない方がいいのだろう。
既に身体を売っている彼らは、どちらかと言えば明るく明け透けで、悲愴感を感じさせない者ばかりだった。
それはある種の諦めにも似て。
「柊さんは…どうしてここに?」
きっと知らない方がいい。
そう思いながらも、梶原は柊に問いかける。
一体彼は、どうしてこんな場所にいるのだろう。
柊が答えるはずもなく、仕方なく梶原は木箱を開ける。
まずは彼の黒く艶やかな髪を梳いた。
髪はしっとりと濡れていた。
前回整えたのだろうと思われるところから、伸びること数ヶ月分。
恐らく、これが彼の囚われている日数になるのだろう。
顔色は悪かったが、髪はとても綺麗だ。
あの主たちも、ある程度は柊に人間らしい生活をさせていたという事だろうか。
振り向くと、少し離れた場所に相模が立っていた。
こちらを監視しているのだろう。
梶原は、一度立ち上がる。
手の届く場所に、楓の枝があった。
そこから新しい緑の葉を一枚取る。
滑らかな手触りのそれを、柊が固く握り締めた手へと差し出した。
「本当はね、顔を上げてもらわないとうまく化粧は出来ないのですが。柊さん、その葉を見ていてください。他のものは、見なくてもいいですから」
拳を開かない柊の、手の甲に。
梶原はそっと楓の葉を置いた。

うんと綺麗にしてあげよう。
それが自分の務めだから。

楓の葉の上に落ちた柊の涙は、梶原の胸をひどく痛めつけた。



「さすがですねえ。またこれからも頼みますよ」
わざとらしいほどに梶原が時間をかけて柊に施した化粧を、主は気に入ったようだった。
蔵の前で、柊を主と相模に引き渡す。
梶原が引いていた柊の手は、あっけなく奪われていった。
その場で、相模が柊に赤い布で目隠しをする。
「今日はいつもの水揚げとは少し趣向を変えようと思いましてね……」
主が梶原にそう言っている間に、冷たく、恭しく、相模が柊を蔵の中へと連れて行く。
それを止める術もなく。
梶原は柊を見送った。


一歩二歩と、後ずさり。
まるで逃げるように梶原は館を後にした。



「柊さんは…俺が渡した楓を握り締めていたそうです。それで、その夜を耐える事ができたのだと」
大和が煎れた新茶の香り。
束の間穏やかな、少し気だるい午後。
大和とふたり、ひそやかに交わす会話。
「お前さんが外に連れ出してくれたのが、本当に嬉しかったのだろうねえ」
大和が目を細めて庭先を眺める。
軒先を狙って飛ぶ燕。
遼が教えるそれを、懸命に目で追おうとしている柊の姿がそこにあった。

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