東京拘置所

□美貌の青空〜不安〜
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初めて柊を見た時。
まるで人形のようだと思った。
ぎこちないなりに、その人形が動いて喋った。
ひどく驚いた。
驚いた上に、何だか少し不快だった。



「まあ、大和は冷たい人間じゃねえよう?だけど、かといってそんなに優しい人間でもねえんだよ。子猫の目が見えるようになるまではまだまだもうちょいと時間がかかるだろうし…まだ外が安全だって決まったわけじゃねえし…」
ずずず、と行儀悪く茶を啜る遼に、目の前に座る女性は大仰に顔をしかめる。
扇子をひらき、胸元を一扇ぎして。
赤い唇がにんまりと意地悪く笑みの形を結ぶ。
「あんた、妬いているんだねえ」
その女性を、遼は『向島の姐さん』と呼んでいる。
本当の名は、依子という。
この一帯の茶屋や芸伎を取りまとめている女性だ。
「つまり、あれだろう。あんたの旦那さんがあんた以外に優しくしてるのが癪に障るって話さ、たとえそれが子猫だったとしてもね」
「そうじゃねえ。そうじゃねえって」
大和が柊を連れ帰ったあの日から、随分と長い時間が経過した。
崩れ気味だった体調もどうにか良くなり、全く見えなかった目もぼんやりと光と影を認識する程度には回復してきている。
本当に以前と同じように見えるようになるのかは分からない。
しかし、遼も大和も、そして梶原もそれを疑い不安になる事は一切ない。
「こないだなんか、柊に包丁使わせてたら大和にこっぴどく怒られたし……なんというか……あいつが柊の親みたいで面白くないというか……」
「ほらご覧。結局面白くないというので当たりだろうに」
依子が遼の方へと扇子で風を送る。
焚き染めた香の、甘い香りがした。
「………」
ああ、そういえば。
と、遼はふと思い出す。
柊と出会った最初の日。
(くちなしの香りがしていたっけ……)
不意に黙り込んだ遼を見つめ、依子は、今度は柔らかな笑みを浮かべる。
「でも、遼ちゃん。その子猫の事をとてもよく考えてやってるんだねえ」
「……はあ!?」
「だって、そうだろう。あんた、本気で心配してるんだろう。そうでなければ……ああ、忘れないうちに言っとこう。いきなり包丁を使わせるのは危ないよ?まさかとは思うけれど、南瓜なんぞ切らせてはいないだろうね?」
「ぐ……」
生まれつき光を知らない者は、成長に合わせて少しずつ生きていく術を身に着けていく。
しかし、中途で突然光を失った者は、そうはいかない。
「もう少し、順序ってもんを考えてやらないとねえ……」
つらつらとそう述べる依子を、遼は上目遣いに見た。
「大和にも同じ事言われた。南瓜は危ねえから、俺が切った」
恨めしげな言葉に、依子はからからと明るく笑う。
そして、扇子をゆっくりと閉じた。
「その子猫を拾ったのがあんたの旦那さんじゃなかったら…この話はもっと違うところに向かうんじゃないのかね」
僅かに物憂げな声音。
遼も真顔になってその言葉に耳を傾けた。
「子猫は子猫なりに、あんたたちふたりに恩義を感じているのだろうさ。そうでなければ……そうでなければ、とっくに死んでいるじゃないのかねえ…。この先、生きていくのは辛いだろうに」



依子の言葉に、胸騒ぎがした。
茶菓の礼もそこそこに、遼は向島を後にする。
数日前。
柊は大和に連れられて家族が弔われている菩提寺に赴いた。
簡素な位牌を胸に抱いて、柊は微笑みながら泣いた。
遼が柊の笑みを見た事は、数える程しかない。
先日見たそれは、危うさを含んでひどく儚いものだった。
そう形容する以外に、どんな言葉も当て嵌まらないような。
「しばらくは、できるだけ傍にいてやってくれ」
と、大和に頼まれていたのだが。
「それは俺の役目じゃねえなあ。梶原もいる事だし……まあ、できるだけ、な」
そんな軽口で返してしまった自分の言動を、遼は少しだけ後悔する。


秋の夕暮れ。
西日は夏の名残でまだ眩しい。
「柊!!」
草履を脱ぎ散らかし、一目散に柊がいる座敷へと走る。
微かに残った線香のにおい。
蹴り破らんばかりの勢いで襖を開けた遼だったが、柊は座敷の隅でいつものようにきちんと正座をしていた。
「遼、さん……?どうしたんです、何か……」
何かあったのか、と問いながら、柊は違える事なく遼がいる方向に顔を向ける。
「……や、……何でも……ねえ」
あまりに穏やかな柊の所作に、己の粗雑さが際立っている気がして遼は呼吸を整えるついでに黙り込む。
どうして、柊が消えてしまうような気がしてしまったのだろう。
自分でもよく分からないまま、遼は力が抜けてしまったようにその場に座り込む。
「遼さん…?」
二度目の呼びかけは不安げな声。
ほんの少しの距離を、柊は手探りで遼に近付いてくる。
「お前が、死んじまうんじゃないかと思って……」
目が見えないことを補う為だろうか、柊は勘が鋭い。
遼は、初めは誤魔化そうと思っていた本音を口にした。
「………どうして、そんな事を?」
いつになく、抑揚のない声だった。
柊に探り当てられる前に、遼は彼の左手を取る。
(ほら、こんなに冷たい手をして。まるで死人みたいじゃないか)
もしも、大和が柊を救わなければ。
もしも、梶原が柊に心を寄せなければ。
「柊…お前は……」
この子猫は、死ぬに死ねなくなっているのではないだろうか。
救われた命を持て余して。
庇護を受けなければならない事は、重荷にはなっていないのだろうか。
本当に、このままでいいのだろうか。
「お前……」
普段は言葉に詰まる事などほとんどない口が、重く動かない。
遼はただ、柊の顔を見つめた。
「遼さん…ありがとう……」
ふと柊の表情がゆらりと揺れる。
言葉にしなくとも伝わるものもあるのだと、遼は柊の涙が零れる様を見守った。
「馬鹿な事を考えたもんだ、俺も、お前も……」
この冷たい手が、人の温かささを取り戻す日は来るだろうか。
「お前にはまだ、教えなきゃならない事がたっくさんあるんだ。とりあえず、南瓜が切れるようになるまでは面倒みてやるから……」
「……はい……」
柊は微笑む。
それは先日見たあの微笑よりも、随分と人間らしいものだった。

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