捜査共助課4(短編小説)

□桜の花が舞う頃
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退屈な授業、窓際の一番後ろの席。
ふと、窓ガラスの向こうに。
一陣の風と共に、桜の花びらが舞っていた。
ぐるりと校庭を囲む塀沿いに植えられた桜。
風が花びらを攫い、小さな渦を巻くように。
その瞬間。
教師の声も、音楽室から聞こえてくる音も、何も聞こえなくなった。



震災後、変則的な勤務はまだ続いている。
なるべく各自で同僚と折り合いをつけ、調整しながら休養を取るようにはしているが、そろそろ心身が参り始める署員も出てきた。
被災地へ応援に入っていた制服組はその症状が顕著だ。
帰署してきた車両の、車底部やタイヤに残った泥を洗い流す作業は、手の空いた署員が担当した。
近くのガソリンスタンドの洗車場を借り、秋葉も久しぶりに覆面車ではないゼロクラウンの洗車をする。
洗車機にかければ楽なのだが、そうは行かない車両なのが厄介と言えば厄介だ。
「お疲れ様です」
作業服を着てウォーターガンの水で泥を洗い流していると、馴染みの店員が声を掛けてくる。
このスタンドでも、ガソリン不足は深刻だった。
それは解消されつつあるが、この1ヶ月は彼らも大変だっただろう。
「何か、会うの久しぶりですね。お元気でしたか」
人懐こく、気さくに話しかけてくれる彼の言葉に頷き。
彼もまた、多少なりと疲れの見える顔をしている事に秋葉は気付く。
梶原や陣野曰く、この店員と自分は似ているらしい。
キャップを目深に被ったその表情は、いつも笑顔だ。
常に眉間にシワを寄せているような自分とは違う。
もしも仕事中、ずっと笑顔でいろと言われたら。
そんな恐ろしい事をふと思い、秋葉はそんな思考を消す勢いでタイヤホイールの汚れに水を掛ける。
一言二言、店員と言葉を交わしながら、秋葉は手早く汚れを落とす。
濁った水を一度排水口まで流し、極力少ない洗剤で黒と白の車体を洗った。
15時過ぎには現場に出なければならない。
署に帰ってワックスをかける時間はあるだろうか。
仕事で使う車両は、もちろん自分のものではないのだが。
それぞれが愛着を持ってそれに接している。
被災地に派遣されて戻ってきた同僚と同じく、車両も労ってやりたかった。

ふわり。

桜の花びらが、まだ濡れたままの車体の屋根に落ちて張り付いた。
それを見て、秋葉は初めて桜が咲いている事に気付く。
「今年は何だか、辛いです」
スタンドの裏の敷地にある、一本の桜。
そこから花びらが散ってくるようだ。
歩道を歩く、小学生の楽しげな声が遠い。
店員の言葉に、秋葉は彼を見る。
僅かにその笑顔が曇ったように見えた。



ワックス掛けを終えると、さすがに腕がだるい。
駐車場にある時計を見上げれば、あと数分で15時になるところだった。
「あ。こっちもこれからワックス掛けだし、それ一緒に片付けます!!」
隣のスペースで同じ様に作業をしていた梶原が、顔を上げてそう言う。
「ごめん、頼む」
片付けようとしていたものを、そのまま梶原の手元まで運び、秋葉は彼の表情を見た。
感受性の強い梶原は、この1ヶ月をどんな気持ちで過ごしたのか。
一見元通りに戻ったようにも見えるのだが。
そんな事をほんの少し思う。
「秋葉さん、大丈夫ですか」
だから、梶原の口からそんな言葉が自分に向けられた時、秋葉はどんな反応をすればいいのか分からなかった。
「桜の季節だから……」
僅かに、気遣わしげに。
梶原は微笑した。



どうして、気付かなかったのだろう。
気付いていたのかも知れないけれど。
いつもと同じように、極力桜を見ないようにしていた訳でもなかったのに。
カーナビから視線を外に向けると、道沿いには、やはり桜が咲いている。
「どうした?」
助手席に座る秋葉に、薬師神が問いかけた。
随分長い間、黙り込んでいたのだろう。
秋葉はその声に我に返る。
今、何を思っていたのか。
「………桜が咲いてたのに、さっきまで気付かなかったんです」
ぽつり、と秋葉は呟いた。
今日、隣にいたのが影平なら。
恐らく自分はこんな事は言わない。
もしもそれが梶原だったとしても。
「この前、貴美ちゃんの墓参りに行ったんじゃないのか」
薬師神は信号待ちのついでに、興味深げに秋葉を見る。
「……行きました」
妹の命日ではなかったのだが。
実家に顔を出すのは気が引けた。
休みが無い事を口実にして、墓参りだけを慌しく済ませたのだ。
「咲いてただろ?桜」
風景を、思い出そうとした。
記憶の中からそれが綺麗に切り落とされてしまっている事に、今更気付く。
その代わりに。
空白になった部分に、全く違う感触の記憶が流れ込んでくる。
信号は青に変わり、再び沈黙した秋葉の意識をこの場に呼び戻す事もなく、薬師神はアクセルを踏む。
とはいえ、それはほんの短い間。
中学校の裏通り、桜並木。
また信号が赤に変わる。
真新しい制服を着て、ランドセルを背負った小学生が横断歩道を渡っていった。
それを笑顔で見守る交番勤務の警官と目が合う。
薬師神が窓を開けた。
「お疲れ様です」
管内に交番は何箇所かあるが、大体の警官とは顔見知りだ。
来年には定年を迎えるその警官は、薬師神と秋葉に敬礼を返し、目を細めて子供達を見送る。
開けた窓から、外の音が入ってきた。
「何か、思い出したんだろ」
薬師神の問いに、秋葉は笑む。
「……中学3年の春…現国の授業中の事を」
自分でそう言いながら、笑ってしまいそうになる。
今、この時点では何の必要もない記憶だった。
「桜の花びらが綺麗でした。風に散って…。それ見てたら、他の事が全然聞こえなくなって。多分、初めて教師に叱られました」
「……そういうのも、多分必要な記憶なんだよ。だから、思い出せて良かった」
走り出すのと同時に、風が車内に吹き込んでくる。
暖かい、風だった。
遠ざかる、子供の声。
彼らが大人になった時、今年の春をどんなふうに思い起こすだろう。
目的地が近付き、この後の仕事へと意識を切り替えながら、秋葉はそんな事を思う。
写真のように切り取った一瞬の景色。
桜の花が舞う頃。

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