捜査共助課4(短編小説)

□魂の欠片
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時折。
あいつが思いつめた表情をしている事には気付いていた。
昔からそうだ。
それこそ出会った頃から。
以前のようなぴりぴりと尖った気配はない。
その代わり、あいつは少しずつ自分の心を壊していく。
やんわりと笑うたびに。



薬師神が不在の時は、背後が少し寂しい。
影平は、そんな事を思いながら書類を書き散らしていた。
窃盗事件の通報者の調書を取った後、それをまるで小説を書くかのように文章にまとめる。
通報者が書いたようにまとめるのが難しい。
そういえば、国語は大嫌いだった。
苦手ではなかったが、大嫌い。
もうちょっと美人で優しい教師だったら、好きになったかも知れないのに。
と、高校時代の現国の教師の恐ろしい顔を思い出しながら、誤字をみつけて溜息を吐く。
現場の図面と文言を合わせながらそれを仕上げ、もう一度通報者に確認をしてもらう。
その後で、清書をして提出…という流れだ。
「はあ……」
複数回溜息を吐いていると、ちらり、と向かい側の席にいる秋葉が顔を上げる。
「……コーヒーでも淹れましょうか?」
「………茶坊主はどうした」
秋葉から珍しく優しい言葉を掛けられ、影平は思わず梶原の姿を探す。
「茶坊主は間もなく出勤すると思いますが。今日は夜勤なので」
時計を見上げると、間もなく10時になろうとしている。
「そういやお前も夜勤じゃなかったっけ」
「ちょっと仕事を溜めてしまっていたので……」
秋葉は普段通りの時刻には出勤していた。
彼が仕事を溜め込むなど、それも珍しい事だ。
影平は首を傾げつつ、ころころと椅子を滑らせて薬師神のデスクの引き出しを開けた。
彼の引き出しは万能だ。
絆創膏や痛み止め、時々チョコレートも入っていたりする。
影平はそこからミニキットカットをひとつ取ると、ぱきん、と割ってから包装を開けた。
原則として、この引き出しから物を取った場合、同じ物か同等の物を補充しておくのがルールだが、影平はそれを守った事が無い。
「……また窃盗してる」
もぐもぐ、とそれを食べていると、タイミング良く秋葉がコーヒーを淹れて来る。
「お前が戻しといてくれたら無問題」
引き出しの中身はもちろん薬師神の私物だ。
しかしそれを薬師神が使っている事は滅多にない。
「この前も俺が戻しましたけど?」
「お前なんかそれくらいしか役に立たねえじゃん」
影平の言葉に、秋葉が諦めたように笑う。
初めてこの2人の会話を聞く者は、今の会話以上の辛辣な言葉の応酬に驚くのだが。
2人にとってはこの程度は言葉遊びだ。
とはいえ、秋葉には過重なストレスがかかっているのだが。
「薬師神さんがいないからって、拗ねてないで仕事して下さい」
自席に着き、秋葉がそう言った。
「………」
影平は何かを言い返そうと口を開いたが、結局黙り込む。
後少しで調書が仕上がる。
そうか、拗ねているように見えるのか。
そんな事を思いながら影平はまた誤字を見つけてしまい、A4の紙をぐしゃぐしゃに丸めて放り投げたい衝動と戦った。



ここに来るのは気が重い。
薬師神は実家近くの病院の入口で足を止める。
桜が散り始め、明日は雨の予報。
これで今残っている花も散ってしまうだろう。
2度程大きく呼吸をして、自動ドアを通り抜ける。
病院特有のにおいとざわめき。
月曜の午前中、さすがに院内は混んでいる。
エスカレーターを経由して、病棟へと上がるエレベーターホールへと足早に向かう。
この病院の6階に、母親の伊津子が入院していた。
昔から身体が丈夫とは言えなかった彼女が、体調を崩して入退院を繰り返し始めたのは昨年。
今回は2週間程の予定で入院している。
『顔を出してやってくれ』
忙しさを理由に伊津子に会う事を避けていた薬師神に、父親がそう言ったのは数日前。
『お前に会いたがっているから』
その言葉に、薬師神は思わず笑いそうになった。
母が会いたいのは、自分ではない。
自分と同じ顔をした、兄だ。
19歳の秋から、行方が分からない双子の兄。
エレベーターを降りてから病室までは、殊更にゆっくりと歩いた。
その一足毎に、己を殺して伊津子の望むモノになるために。
病室のドアをノックしても、内側から返答は無い。
薬師神はそっとドアを開けた。
薄い緑色のカーテンの向こう。
母はぼんやりと目を開けて空を見ていた。
「………母さん」
無理に笑みをつくり、伊津子の視界に入る。
彼女の中では、息子は高校生のまま時間を止めていた。
2人の息子のうち、片方の存在を完全に自分の中から追いやり、愛情の矛先を失った現実から目を背け続ける。
いつまで。
いつまで続くだろう。
紅を差したわけでもないのに、赤い唇。
存在を否定され始めた幼い頃の記憶のまま。
そこからいつか、呪詛の言葉が零れ落ちるのではないかと思うとぞっとする。
「かける……」
か細い声に、弱い微笑み。
痩せた腕が自分の方へ伸ばされ、薬師神は一瞬躊躇った後でその手を取った。
「また来てくれたの?…ありがとう」
嬉しそうに笑う伊津子の言葉に、ふと違和感を覚える。
彼女の言葉を否定する事は絶対にしない。
それが無駄である事はもう分かっていたから。
また、と伊津子は言う。
自分はずっと顔を見せてはいなかったし、父親の言葉がそれを証明しているはずだ。
うまく話を合わせながら、薬師神は思考を巡らせる。
翔、と呼ばれるたびに、何かが突き刺さる。
それに応じるたびに、何かが砕ける。
随分と衰えた母の姿を見つめながら、これがいつまで続くのだろうかと切実に思う。
いつかは、自分の名前を呼んで欲しかった。
母親に愛されたかった。
「かける」
違う、と言えば良かったのだろうか。
傍らに座る薬師神の頬に、冷たい伊津子の指先が触れる。
薬師神は、触れて離れた伊津子の指先が濡れている事に気付いた。
知らない間に涙が零れていた。
幼い頃からの母親への思いは、やがて翔への憎しみに変わり。
今また、ほんの少し形を変える。
そう遠くない先。
伊津子がこの世から消えてしまう前に。
翔と母親を会わせたい、と思っている自分に薬師神は気付く。
そうした所で、自分にとって何かが変わるとも思えなかったが。
「またね…母さん」
伊津子を母と呼ぶ時だけ、ほんの少しの思いをこめる。
自分は翔ではなく、大和だと。
病室を出た後は振り向かず、まるで逃げるように辿った通路を外へと向かう。
胸を塞ぐ形の見えないモノから逃げたい一心で。
ようやく外に出た所で、息苦しさから解放された。
「………翔さん?」
不意に見知らぬ青年にそう声を掛けられたのは、歩き出そうとした時だった。



珍しく秋葉がコーヒーなど淹れてくれたからだろうか。
勤務を平穏に終え、影平はふと私用の携帯を開く。
平穏無事だったが秋葉とは比較にならない量を溜め込んだ書類整理に没頭し、携帯を確認する事を忘れていた。
着信が1回。
メールが2通。
「…はて」
帰り仕度を整えつつ、首を傾げる。
着信は、自宅からだった。
メールのうち、1通は妻からその着信が娘の悪戯だという旨の文。
「はてはて……」
もう1通のメールは薬師神からだった。
予定が空いているなら今夜時間を取ってくれないか、という内容だ。
幸い今日は何事も無かった。
明日は休日だ。
ついでに言うなら誕生日なのだが。
「はてはてはて……」
「どうしました?」
これから夜勤に入る秋葉が、不思議そうに影平を見上げる。
「うんにゃ……ナンデモナイ」
「残業したい、とか?」
「うんにゃ……トンデモナイ」
大体薬師神と会う時は、お互いの家からちょうど同じくらいの距離にあるファミレスが会合場所だ。
とりあえず今から帰宅し、20時過ぎなら大丈夫だろう。
携帯を鳴らしてみたが、薬師神は出ない。
諦めて手短にメールを返信し、影平は僅かに考え込む。
「影平さん?」
秋葉の声に、微量の胸騒ぎがした。
それを振り払うように、影平はバッグを掴む。
「お疲れ〜!!秋葉、プレゼントは明後日でいいぞ気にすんな!!」
パートナーの誕生日を律儀に覚えている秋葉に手を振り、影平はフロアを出た。
結局、薬師神からの返信は無く。
一方通行ではあったが一応約束した時刻にファミレスに行き、持ち込んだ文庫本を2冊読み終えた所で、待つ事を諦めようかと影平は迷う。
「……はてはてはてはて……」
ぬるくなったコーヒーを飲み干し、携帯を取り出してみたものの。
何か急用が出来たのかも知れない、と思い直す。
帰宅するというメールを送り、影平は立ち上がった。



その携帯が鳴ったのは、日付が変わろうとする頃。
枕元に置いていた携帯の音に、眠っていた影平はすぐに目を覚ます。
薬師神からの連絡を待っていたのもあるが、こういう音にすぐさま反応するようにならなければ、刑事という仕事は出来ない。
「………嫌な感じ」
側で寝ている妻子を起こさないように、通話キーを押して布団を抜け出す。
キーを押す前に確認した発信者は秋葉だった。
こんな夜中に、夜勤の秋葉からの連絡だ。
「影平さん」
嫌な予感は肌に纏わりついて離れない。
呼びかけてくる秋葉の声が緊張している事も、不安を増長させる。
「まだ誕生日オメデトには早いんだけどなあ…」
何故、この時間になっても薬師神からの連絡が無いのだろう。
何とか不安を拭おうと影平は秋葉に向かって軽口を叩いた。
「すみません、影平さん」
何とか影平の言葉を遮ろうと、秋葉が焦れる気配がする。
「ヤクに、何かあったのか?」
伝えられるよりも、先に。
影平は低く呟いた。
「詳しい状況はまだ分かっていません。怪我をして、医療センターの救命救急へ。15分でそこに行きます。下で待ってて下さい」
端的に情報を口にする秋葉は、動揺しているのだろうが何処か冷静だ。
その冷静さには助けられる。
「赤色灯回して10分で来い」
「了解しました」
ふつり、と通話が切れる。
今更ながら、血の気が引いて指先が冷たい。
起きてきた妻には、現場に出る、とだけ告げた。
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