捜査共助課4(短編小説)

□要精検
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「はぁぁぁぁ」
助手席から影平の盛大な溜息が聞こえた。
わざとらしく、聞こえよがしな溜息だ。
秋葉はステアリングを握り、前方の信号が青に変わる時を待っている。
クラッチを踏まなくてもいい左足が何となく落ち着かず、入れ換える必要のないギアに無意識に左手が伸びる。
昨日までほかのマニュアル車に乗っていたからだろう。
そういえば最近はマニュアル車を敬遠する若手が出てきた、と地域課の警官がぶつぶつ言っていた。
「は〜……」
影平の事は放っておいてそんな事を考えていると、再び隣から溜息が聞こえる。
秋葉はそのうち車内が二酸化炭素だらけになりそうなので、仕方なく口を開く事にした。
「……どうしたんですか、そんなに溜息ばかりついて」
聞いてはみたものの、影平の憂鬱には心当たりがあった。
今朝帰って来た健康診断の結果の事だろう。
確か、胃のレントゲンと肝機能が要精検だっただろうか。
影平は検査に引っかかるのが初めてだったらしく、まるでこの世の終わりのような嘆きようだった。
ちなみに秋葉も要精検の項目があるのだが、影平のようにいちいち嘆く気にもならず、結果の書類はそのままデスクの引き出しに放り込んだ。
「俺、もう駄目かも」
「………は?」
唐突な言葉に、一瞬アクセルを踏み込むのが遅れる。
そのせいで、少々乱暴な走り出しになってしまった。
普段ならそれについて一言物申しそうな影平だが、今日は特に反応はない。
「帰署したら、一緒に飯食わね?」
「…………え?」
ほとんど成立していない会話に、やはり話しかけるべきではなかったかと秋葉は後悔し始めていた。



駐車場の定位置に覆面車を停め、ダッシュボードに入っている日報に走行距離などを書き込む。
「何キロ?」
影平に問われ、これはいよいよ何かがおかしい、と秋葉は鳥肌を立てる。
影平はいつも帰署するとさっさと車を降りてしまうので、それを書き込むのは秋葉の役目だった。
見るべきメーターがあるのは運転席だし、別にそれはそれで会話をする手間が省けるので良かったのだが。
走行距離を告げると、影平は黙ってそれを用紙に書き込んだ。
そしてダッシュボードにファイルを放り込む。
「飯行こうぜ」
「あ……鍵、返してきます」
「ああ、そか」
右手の人差し指に引っ掛けた鍵を見せると、影平は頷いた。
立ち番の警官に声をかけ2階へと上がっていく影平の後ろ姿は、どことなく元気がない。
影平に対してある意味冷徹に振舞っている秋葉も、さすがに気にかかるレベルだ。
(今日ヤクさんいたっけ……)
こんな時は影平を一番コントロールできる薬師神がいてくれればいいのだが、と思い出せる範囲での勤務表を頭の中に並べてみたりする。
2階のフロアを横切り奥にある階段を上がる頃には、何か影平に声をかけた方がいいのだろうかなどと悩む。
刑事課には薬師神の姿は無く、今度は秋葉が小さな溜息を零す事になった。



昼時の食堂は混んでいる。
午前中に頼んでおけば各課へ配達もしてくれるのだが、仕事がさほど立て込んでいない署員は食堂へ降りてくるのだ。
「お前、同じもんでいい?」
食券を買うために千円札を機械に飲み込ませた影平が、振り返って秋葉に問う。
「………?」
「沈黙は肯定ね」
ラーメンを2枚、と枚数を設定して影平がボタンを押した。
ちなみに秋葉が返答に詰まったのは、昼食を影平にたかられる事はあっても奢ってもらう事など無いからだ。
これは本当に、本格的にまずい、と秋葉は眉をひそめた。
もはや、休日の薬師神をここへ呼び出してもいいレベルにまで達している気がする。
「おばちゃーん、ひさしぶり〜。お孫さん元気?」
調理場との仕切りになっているカウンターで食券を出し、影平が中にいる職員に声をかける。
楽しげに会話をしている姿は、いつもの影平だ。
ほんの少し安堵して、秋葉は影平に食券の代金を差し出した。
「あ〜、そっか。お前あんまりこういうことされるの好きじゃないわな」
「はい」
可愛げのない態度だと自分でも思うが、なるべく影平との間では貸し借りは無いほうがやりやすかった。
「ま、今日はいいってことにしといてよ。付き合わせたのこっちだから」
「…………」
秋葉は思わず内心で薬師神を呼んでしまった。
無論、助けを請う意味で。
あまり逆らわないほうが良さそうだ、と判断し、秋葉は影平に丁寧に礼を言った。



「面倒だなあ。病院の予約取るの」
「……いっそ精密検査を放棄するという手もあると思いますが?」
ずるずるとラーメンをすすりながらぼやく影平に、秋葉は悪魔の囁きを返した。
「あ〜そんな…お前じゃあるまいし」
「そうですね。心配なところは真面目に調べたほうがいいですよ。ご家族のためにも」
恐らく影平がこんなにも絡んでくるのは、不安があるからだろう。
もしも厄介な病に倒れるような事があれば、確実に負担は彼の妻子に向かう。
影平は母親を癌で亡くしているので、尚更様々な事が気にかかるのかも知れない。
「……お前さ、結婚とかしないの?」
影平がちらりと目を上げて秋葉に問う。
投げてよこされる会話の全てが唐突すぎて、ついていけない。
何処をどういうふうに経由するとそんな質問になるのだろう。
影平の頭の中は、本当に健康診断の結果の事で一杯なのだろうな、と秋葉は箸を置いた。
「突然、どうしてそんな事を?」
「や、別に…」
悪びれた様子もなく、影平は肩をすくめた。
秋葉は水を一口飲むと、唇を笑みの形に結ぶ。
「しないでしょうね」
ざわついた食堂の空気に紛れて、秋葉はそう答えた。
「彼女とか、いねえの?」
「……どうしたんですか、影平さん」
秋葉はあまりに想定の範囲を越えた質問に苦笑する。
「まだ、忘れられないとか?」
「……影平さん」
軽く影平を制し、秋葉は言葉を探す。
不思議に苛立ちは感じなかった。
「そもそも、俺は何もかも一度忘れましたからね」
苛立ちも何も無く。
過去の出来事を、こうして僅かばかり冗談めかして口に出来る。
それだけの時間が、自分の中で経ったのだと秋葉はふと思う。
奈穂が死んだあの部屋。
取り乱した秋葉を、扉の前で止めたのは影平だった。
「早く食べないと、のびますよ」
「……お前のもな」
それからしばらくは、お互いに食事に集中する。
「………立花とか、どうすんだろうな」
スープを残して器の中がほぼ空の状態になったころ、影平が再び口を開く。
「それは直接立花に聞いてみた方がいいですね」
そんな質問を彼女が許せば、の話だが。
秋葉は溜息と苦笑交じりに影平を見た。
「俺はもう、誰かと切り結ぶ事はできないと思います。できないというより、したくない。秋葉の家は兄がいますし子供もいますから、誰かが困る事もないでしょう。そもそもうちは本家ではないですから」
「案外、臆病だよなお前」
ぱちん、と箸をトレイの上に置き、影平が呟く。
「ええ、臆病ですよ。散々お前は他人を不幸にするって言われてきましたからね。今回影平さんが検査に引っかかったのも、俺のせいかもしれませんよ?」
「うわあ、ほんとだ、ヤバイ、そうかも」
勘弁してくれ、と影平は両手を合わせる。
「俺に関わって不幸になった人間のひとりに数えられたくなかったら、さっさと病院の予約とってくださいね。俺も責任取れませんから。今日はごちそうさまでした」
秋葉は影平に頭を下げ、トレイを手に立ち上がる。
「お前、何の項目で引っかかったの?」
席に座ったままの影平の問いに、秋葉は眉をひそめた。
「……貧血、その他です」
「…だせえな…貧血とか」
何とも言い難い表情で、影平が唇をゆがめた。
「なあなあ、一緒に病院いかねえ?」
「お断りします。心細いならヤクさんにでもついてきてもらってください」
食器を返却口に返しながら、秋葉はぴしゃりと言った。
「何でヤクだよ。なあなあ、貧血その他って何?その他って何?」
「秘密です」
「ケチ!!」
ようやく普段の影平の姿に近付いただろうか。
そう思った途端、苛立ちを覚える秋葉だった。
 

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