捜査共助課4(短編小説)

□永訣の朝
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あなたは愛情のかわりに
たくさんの絶望をくれた

あなたは笑顔のかわりに
たくさんの憎しみをくれた

あなたの温かい手に
触れられる事を
どれだけ願ったか

どれだけそれを渇望したか

そしてそれを全て諦めた日の事を

あなたはきっと
知らない

そして
二度と知ることはない


母が亡くなった日の朝は、小雨が降っていた。
8月の中旬に起きた恐喝傷害事件の被疑者たちの動向を調べるために、数箇所に分かれて交代で張り込みを続けて数ヶ月。
数日前から薬師神の携帯には、父と妹から連絡が入り続けていた。
母、伊津子の容態が思わしくないと。
仕事を理由に、薬師神はその連絡には一切応えなかった。
母が会いたいと言っている、という父の言葉には正直失笑してしまったりもした。
そんなわけがないという事を知っていたからだ。
それでも一度だけ。
仕事の合間を縫って、母に会いに行った。
今更、彼女に対しては何も望みはなかった。
そのつもりだったのだが。
カサカサに乾き、ひび割れた唇がもう一度動いて。
薄く開かれ焦点の合わない濁った目が、もう一度こちらをしっかりと見て。
もしかしたら自分の名を呼んでくれるのではないか、などと一瞬でも思った自分を薬師神は嘲笑いつつ呪う。
彼女の死を身近に感じた時、もう少し自分の事以外に何か複雑な思いが生まれたりするだろうかと想像していたのだが。
あっけないほどに、母に対する感情は他には何も無かった。
もう、母と自分を繋ぐものなどなにひとつ無いのだと悟る。
元より、そんな物は存在していなかったのだから当たり前だ。
結局、母の手を握る事もなく、逃げるように病室を後にした。
自分はいつも逃げているのだと薬師神は思う。
纏わりつくように着いてくる、濃厚な死臭。
それを振り払うように、逃げる。
薬師神は現場への帰り道、昨年末に再会した兄の翔に連絡を取った。
翔に母を看取ってもらえばいい。
それで全てがうまく収まるだろうと思ったからだ。
それが最大限、自分から母への最後の愛情であり、翔へのとてもささやかな復讐でもあった。
翔は弟の思いを理解していたのか、その言葉に逆らわなかった。
いっそ自分のふりをさせて父と妹に会わせようか、とも思ったのだが。
さすがにそれは悪趣味だと薬師神は思い直した。


明け方の車内は少し肌寒い。
ワゴン車は空間がひろく、エンジンを切っている状態では外気と共に温度が下がっていく。
もしかして自分だけが寒さを感じているのだろうか、と薬師神は車内に視線を廻らせる。。
こんな時刻に動きがあるとは考えにくいが、薬師神の手元にある暗視カメラはマンションの入口を捕らえたままだ。
「20歳になりたてで美人局とか…どうなってんの全く」
そう呟く同僚が、缶コーヒーのプルタブを開ける音がする。
夜が明ければ車両を替えて他の捜査員と交代になる。
被疑者が複数いる場合、行動パターンを押さえて同時刻に逮捕に踏み込む事が多い。
そうでなければ、逃走される可能性があるからだ。
「今週中に逮捕状請求できますかね……」
まだ温かさの残る缶コーヒーを差し出されたが、薬師神はそれを握り締めただけで口をつけなかった。
自分が感じている寒さが、気温によるものなのかそうでないのか、判断がつかない。
左肩を預けているシートにもたれかかり、コンソールパネルの文字盤が緑色に淡く光っているのを右の視界でちらりと見て、薬師神はまたすぐに暗視カメラへと視線を戻した。
無性に時刻が気になった。
仕事用に持っている携帯が震えた。
「………」
ある程度の予感。
それも確信を持った予感がしていた。
寒さの理由はそれだったのかも知れない。
薬師神はひどく重たい指先で携帯を開く。
夜勤をしていたのは誰だったかな、などと暢気なことを思いながら。
「………はい。薬師神です」
ひそめた声に、一呼吸おいてから相手は口を開いたようだ。
「秋葉です。今、ご家族から連絡が……」
「うん。ありがとう。分かった」
薬師神は僅かに微笑んだ。
もちろんそれは秋葉には見えないし、そばにいた同僚にも見えなかっただろう。
電源を切り忘れた私用の携帯が、刑事課のデスクで鳴り続けていたとしたら。
秋葉には心配と迷惑をかけてしまったに違いない。
「すぐに交代を手配しましょうか」
「いいよ。このまま予定通りで」
薬師神の答えに、秋葉が一瞬押し黙る。
(だって、もう……死んだんでしょう?)
その言葉は口にはせず、薬師神は通話を切った。





特休の届けの出し方は分かっている。
親が亡くなった場合は1週間の休みが取れるのだが、そこまでする必要はないと薬師神は思っていたし、無論、するつもりもなかった。
帰署して一応の勤務を終わらせてから、まず三島に断りを入れて届けを書く。
「早く帰ってあげなさい」
という三島の言葉は素直にありがたかった。
「今日中にやっておく事があれば言ってください」
夜勤が明けた秋葉が薬師神の側に来てそう言う。
片付けられるものは出来る限り片付けておこうとしていたのだが、その申し出にも素直に甘えるべきだろうか。
「………影平は休みかな」
「はい、今日から3日間」
お互いに事務的な口調になるのは、秋葉が薬師神の家庭の事情をある程度知っているからだ。
「………帰りたくないんだけど……って言ったら、笑う?」
「いいえ」
秋葉はそう即答した。
その表情を見て、薬師神は後悔する。
秋葉は影平ではないのだから、こんな冗談を言われても恐らく困るだけなのだ。
「じゃあ……甘えていいかな。この映像の処理と、こっちの書類。もし俺のいない間に逮捕状請求するようだったら……すぐに連絡くれる?」
「わかりました」
ようやく秋葉が安堵したように微かに笑った。
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