捜査共助課4(短編小説)

□夏風邪
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7月1日、午前5時23分。
薬師神は、目覚ましのアラームを待たずにぱちりと目を覚ました。
「……う〜……?」
ほんの少し過労気味、寝苦しい夜が数日続いた事も手伝ったかも知れない。
「ちょっと、やばい……かな?」
昨日の昼頃から、若干体調に異変はあったのだが。
薬師神はごろりと寝返りを打つと、天井を見つめながら額に手をやる。
少し熱い、気がする。
とりあえず、『気のせい』という呪文を唱えておく事にして、薬師神は起き上がった。
途端、くしゃみが出る。
頭痛もするし、鼻もぐずぐず。
心なしか、ぞくぞくと寒気もする。
仕事を休む気は無いが、こんな日に限って変則的な勤務だ。
自分が普段組んでいる同僚が射撃技術大会の訓練で不在。
そして、影平が組んでいる秋葉も同じくその訓練に参加する為に不在だ。
つまり、今日は一日影平と組む事になっている、という訳なのだが。
「あ〜あ、アイツに何を言われるやら………」
シャワーを済ませてからツードアの小さな冷蔵庫を開ける。
あまり食欲は無かったが、軽くでも朝食を食べておかなければ絶対にもたない。
普段はきっちりと和食を作るのだが、しかし今日は半分どうでもいい気分になってきている。
まだ長い一日は始まったばかりだというのに。
結局賞味期限間近の牛乳をカップに注いでレンジで温め、冷凍しておいた食パンを1枚トースターに放り込む。
「も、いいや。これで」
独り暮らしに不自由を感じた事はない。
たいていの家事なら自分でこなせるし、不規則な生活に引きずり回される日々を誰かに気遣う事もないからだ。
「あ〜……味、わかんね……」
先日影平の伴侶である智佳がくれたピーナツバターを、焼けたパンに塗って一口食べてみたのだが。
結局『甘い』という以外に味はよく分からなかった。
「あ〜……」
無駄に唸り、溜息を吐く。
長い一日はまだ始まったばかりだというのに。



「おっはよ!!」
早めに出勤し、机の引き出しを漁っていると、能天気な挨拶と共に影平が入ってきた。
今日は扱いにくい相方も留守で、見たところ心身共に快調そうだ。
いいなあ、と思いながら、薬師神は引き出しの中から葛根湯を取り出した。
頭痛と熱が自覚症状なので、痛み止めにするかとも迷ったのだが。
この課にいる同僚は、この一番右上の引き出しが薬箱である事を知っている。
絆創膏や痛み止め、冷却シート。
果ては正露丸唐衣Aまで、各種取り揃えてお客様のお越しをお待ちしている状態だ。
俺の引き出しは富山の置き薬か、と思わないでもないのだが。
好き勝手に引き出しを開け、気が向いた時に補充してもらう事が常だ。
残念ながら痛み止めが切れてしまっていた。
「おはよう」
さて、ご機嫌な彼のテンションに一日ついていけるだろうか。
ついていかなければいかないで、また何を言われるやら分からない。
影平は秋葉の反応の無さに手を焼いているようだが、むしろ今日は普段の秋葉の苦労に同情したい気分だった。
「何?風邪?」
ポケットに葛根湯の包みを隠し、給湯室へ行こうとした薬師神を見咎め、影平が声をかけてくる。
「イイエ、違います」
ここは全否定しておかないと、自分に負ける。
自分に負けるならいいが、他人をいたぶる隙はないかと目を光らせている影平に負けてしまう。
「嘘、絶対風邪だ!!声変わってんじゃんよ」
にやあ、と嬉しそうに笑う影平が恨めしい。
「変声期なんです」
すたすたと部屋の隅にある棚に向かい、自分用のマグカップを取る。
「何、その秋葉系なセリフ」
影平は、自分が言った事に対して冷たく切り返されると、必ず『秋葉系』という言葉を使う。
まるで秋葉みたいだなお前、という意味らしいが、どうやらお気に入りの言葉のようだ。
それを無視して給湯室に行くと、先客がいた。
茶坊主の梶原だ。
なかなか彼より年下の新人が配属されないため、ずっと梶原が茶坊主をしている。
一見気の毒に見えるのだが、梶原はこの雑用を全く嫌がっていない。
そして同僚達も、彼が淹れる茶に癒されているという事実がある。
梶原が不在で、優が代わりに茶を淹れたりする日は、思わずがくりと肩を落としてしまいたくなるほどだ。
優にそれがばれたら、刑事課全員が彼女に二度と口をきいてもらえないだろうから、内緒だが。
「おはよう……」
「おはようございます…あらら、薬師神さん。風邪ですね」
やかんで湯を沸かしながら、梶原は薬師神が後ろを通りやすいようにその長身の身体を退ける。
「ん〜……油断した。風邪みたい」
冷たい水をカップに入れ、顔をしかめながら葛根湯を飲み干す。
さて、気休め程度には効いてくれるだろうか。
「今日、大変じゃないですか。影平さんとお外回り」
「あはは、お前も段々はっきり言うようになったねえ」
保温ポットの中に沸いた湯を移しながら梶原が笑う。
つられて笑いながら、薬師神はゴミ箱に包みを捨てた。
「今日も暑いですけど、後で生姜湯入れますね。あまり冷やさない方がいいと思うんで」
薬師神の引き出しが薬箱なら、梶原の引き出しは各種飲み物の素が入っている宝箱だ。
同僚の体調をみながらそれを使い分ける彼の優しさには、感服する。
薬師神は礼を言って、給湯室を出た。
「ふ〜……」
また大きな溜息が零れる。
午前8時前。
まだ一日は始まったばかりだ。



「夏風邪はね。馬鹿が引くんです」
現場検証に向かう車の中、ステアリングを握る影平がそう嫌味な事を言う。
朝飲んだ葛根湯と梶原が作ってくれたインスタントの生姜湯で、なんとかごまかせたのも数時間だった。
結局自販機で栄養ドリンクを買い、それを流し込んだ。
胃の中がおかしくなりそうだ。
「ああ、そうですか」
助手席に身体を沈め、薬師神はふいと顔を背ける。
普段は何も思わない影平の言動が、少し気に障り始めた。
この生き物と一日の大半を過ごす秋葉の苦労をふと思う。
「ばーかばーか。ヤクのばーか。ヘソ出して寝てるからだ」
「……俺がヘソ出して寝てるかどうか、知らないくせに」
駄目だ、やはり自分は秋葉のようにはなれない。
しばらくの間、影平が言うところの『秋葉系』を装っていたのだが、ものの数回の言葉のキャッチボールで薬師神は挫折する。
「てか、馬鹿が風邪引くならお前が真っ先でいいのに」
手元の資料に目を落として呟く。
いつもならば走行中の車の中で当たり前にやっている仕事だ。
しかし、今日は何だか悪酔いしそうだった。
薬師神はその作業も諦め、ふう、と溜息を吐く。
そして気付いた。
暑がりの影平が、エアコンの温度を少し上げている。
秋葉が効きすぎる冷房を嫌うため、いつもは我慢を強いられあいつに虐げられているのだと泣きついていたのだが。
「エアコン…いいの、この温度で」
「………いい」
薬師神が問いかければ、口調を改めて影平は神妙に答える。
「てか、お前早めに帰れば?今日」
「……無理でしょ。今日はただでさえ人が少ない」
今日を乗り切れば、明日は休みだ。
とりあえずそれで何とか回復できるだろう、と薬師神は自分に言い聞かせる。
こんな時に使える祝詞でもあればいいのに、と心底思った。
全く神主の資格など、あの家を出れば実生活には何の役にもたたない。
「んじゃ、さくさく仕事しよか、馬鹿がこれ以上風邪をこじらせないために」
「お前、一言余計。それが秋葉に嫌われる原因」
無線に応答した後で、薬師神はチクリと反撃を試みた。



何とか仕事をこなして帰宅したのが19時半。
だるくてだるくて仕方が無い。
朝よりも食欲も気力も無い。
このまま倒れこんで眠ってしまえばいい。
そんな事を思いながら服を着替える。
刑事という殻を纏う自分から、素の自分へ。
実家ではまた別の殻を纏う。
不調の時はロクな事は考えない。
そんな自覚はあった。
両手両足の指では足りない数の、本日何度目になるか分からない溜息を吐いた所へ、ドアチャイムが鳴った。
うるさく連打してくるその鳴らし方には覚えがある。
薬師神はチェーンを掛け忘れていた玄関のドアを勢いよく開けた。
「うるさいっ!!近所迷惑だ」
怒鳴りつけると…もちろん小さな声で、だが…そこにいた影平はにこりと笑った。
「お見舞い」
大きな紙袋を目の前に突き出される。
薬師神が呆気にとられる暇もなく、勝手知ったるの要領で影平はどかどかと部屋に上がりこんだ。
「飯食おうぜ。智佳が作ってくれたんだ」
台所のテーブルの上に、タッパーをいくつか並べながら影平が言う。
「あと、内緒で酒!!酒で散らしちまえ、馬鹿な夏風邪。どうせお前、ここに薬なんか置いてないんだろ」
最後に6缶入りのビールを取り出し、影平は悪戯っぽく笑う。
「俺、もうお前の相手する元気ないんだけど……」
本当に無駄にテンションの高い奴だ。
溜息をもう一度。
だが、それは少し今までの溜息とは質が違っていた。
ほんの僅か、感じていた心細さが消えている。
「いいよ?勝手にテレビ見て遊ぶから」
無遠慮に棚から皿を取り出し、タッパーの中身を豪快に移しながら影平が言った。
心配だから、という一言は結局その口から出てこなかったのだが。
薬師神には影平の不器用な優しさが理解できていた。

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