捜査共助課4(短編小説)

□君も何処かで
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彼はかつて誰よりも近い場所にいて

誰よりも近い魂だった



「………」
ふと右手の人差し指の先に、一瞬の鋭い痛みを感じた。
薬師神は僅かに顔をしかめる。
まるで刃物で切ってしまった時のような痛みだった。
血液が溢れてきてもおかしくないほど生々しいそれに、思わず指先を見つめてしまう。
だが、己の指先には何の傷も無かった。
「ヤク、どした?」
日付が変わる手前の時刻。
クリスマスの夜勤を秋葉と交代していた影平の声がした。
班が違う彼とは背中合わせに座っているというのに、微細な空気を察知したらしい。
薬師神は苦笑する。
「指、切った」
正確には、切った気がした。
覚えのある痛みだった。
幼い頃はもっと頻繁に体験していた痛みだ。




物心がついた頃。
既にふたりの母親は、自分の息子が双子であるという事を認めようとはしていなかった。
薬師神の兄である翔のみが彼女の視界に映っていて、もうひとりの存在は完全に彼女の意識からは抜け落ちていたのだ。
母親に名前を呼ばれた記憶も、抱きしめられた記憶も、自分の中には残っていない。
だが、双子の兄と過ごす時間は、薬師神にとっては確かに救いになっていた。
双子の孫を分け隔てなく扱い、決して見間違える事は無かった祖父母の存在も。
祖父母がいなければ、もっと心の傷は深くなっていただろうと思う。
兄を疎む気持ちも、当時はまだ無かった。
その気持ちが無かったのか、何も感じないようにしていたのかが分からなくなったのは、もっと月日が経ってからだ。
実家の神社の境内はふたりの遊び場だった。
兄としゃがみこみ、本殿の床下を覗く。
ひやりとした空気。
自分たちがいる場所と、覗いた先に見える向かい側は世界が違う気がした。
時間を忘れて遊んでいたかったのは、ふたりだけで過ごす時間が好きだったから。
「……痛」
ある冬の日。
いつものように境内で遊んでいた夕暮れ、兄が小さく声を上げた。
薬師神が気づいた時には、彼の指先からふつりと赤い血が玉のように浮き上がっていた。
何かで切ったのだろう、と思う間もなく。
薬師神の指先も痛み始めた。
慌てて祖母の部屋に駆け込み、まずは実際に怪我をしている兄が手当てをしてもらったのだが。
同じように痛みを訴える弟にも、彼女は絆創膏を貼り付けた。
「お前たちは誰よりも近い存在だからねえ」
片方が怪我をすれば、無傷のはずの片方も同じ場所が痛む。
片方が熱を出せば、片方も同じ症状に苦しんだ。
祖母の言葉の意味が分かったのは、そんな事がよく起こり始めた時だ。
お互いを繋ぐ絆について、薬師神は幼いながらに考えていた。
「やまと」
兄が自分を呼ぶ声が、好きだった。
母親の溺愛が重荷になり、彼が不意に姿を消した後も。
独りだけ逃げた彼を激しく憎悪するようになった後も。
時折原因不明の熱が出たり、傷を伴わない痛みを感じたりした。
それが、行方が分からない兄の存在を感じる事ができる唯一の方法だった。



指先の痛みは微かに続いている。
そっとその指から目を逸らし、薬師神は小さく溜息をついた。
「翔……」
聞こえない程の声で。
兄の名前を呼んでみる。
あの日から探し続けている兄の行方はまだ分からない。
「まーたどっかで兄貴がカッターかなんかで指切ったんじゃねえの」
仕事をしているぞというアピールなのか、影平が必要以上に音を立ててパソコンのキーを叩く。
その音と、彼の声で薬師神は我に返った。
「そうかもな」
兄が消えた日から。
薬師神は彼を探し続けている。
生きているのか死んでいるのかさえ分からない兄が、やはり何処かで生きているに違いないと思えるのは、まだ時折自分に昔と同じ現象が起きるからだ。
それだけが、根拠だった。
心の深淵には、ほの暗い憎悪がまだ灯っている。
いつか、兄と対峙する時が来たら。
その時、自分はどうするだろう。
何を思うだろう。
「大丈夫だって」
影平が、まるで薬師神の思考を読んだように言う。
事の次第を全て知っている彼がそう言うのなら、自分は大丈夫なのだろう。
痛みが引き始めた指先をもう一度見つめ、薬師神は笑った。
「……誕生日おめでと、大和」
相変わらずキーを乱暴に打ちつける音。
それに紛らわせるように、影平がそう呟いた。
気づけば、時計の針が日付が変わった事を示している。
12月28日。
兄と自分の生まれた日だ。
「お前も毎年よく覚えてるな」
確か去年は出勤してきた途端にこの場所で派手にクラッカーを鳴らした影平は、秋葉に存分に叱られていた。
「秋葉の誕生日とか、覚えてるの?」
「知らん」
背中越しの会話。
薬師神も置いていたペンを取る。
「それ、明日までに片付けないと秋葉がかわいそうだぞ」
「………知らん知らん」
薬師神はちらりと背後を振り返る。
やはり同じタイミングで振り向いた影平と、ほんの少し目を合わせた。
「36歳だってよ、オッサンだなヤク」
「お前の方が誕生日早い分俺より年だけどな」
「うるせえ。それ言うな」
にやりと笑い、影平が背を向ける。
薬師神も仕事に没頭するべく、書類を広げた。
今日、何処かで兄も。
生まれてきた事を祝ってもらうだろうか。
そんな誰かが、兄にも居るだろうか。
「大丈夫だって」
また影平が呟いた。
「ありがとう、遼。お前がそう言うなら、そう思う事にする」
薬師神の返答に、影平は面白くなさそうに鼻を鳴らした。

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