東京拘置所

□美貌の青空
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『客』

ひどい雨の夜だった。
ああ、傘を持ってくるのだった。
そう思いながら、私は身体が生温く濡れていく感覚を少々忌々しく思いつつ歩いていた。
忌々しく思いながらものんびりと歩いていたのは、傍から見ればおかしいかもしれない。
くどいようだが、私は歩いていたのだ。
何故なら、急いで帰る場所も無かったし、この街にも不案内だったから。
こんな夏の雨に濡れて歩くのも、悪くはない。
遠雷の音を聞きながら、空を見上げる。
真っ黒な雲が覆うその隙間には、稲光が生き物のように走っていた。
その時顔を上げるまで、私は何処をどう歩いていたのか知らなかった。
まるで狐火の様に灯る灯り。
赤い格子の隙間から、白い手が幾つも差し出される。
いつの間にか、花街に迷い込んでいたようだ。
いくらなんでも場違いだ。
そう思い、踵を返そうとした瞬間。
私の右腕を無遠慮に引くものがいた。
「兄さん、男を抱いた事があるかい」
腕を引いた力と同じ、ひどく無遠慮で下卑た問い。
私は顔をしかめた。
「ああ、ひどく濡れてるじゃないか。ちょんの間、遊んで行きなよ。安くしとくよ」
私は顔をしかめたまま、その彼を見る。
にたりと笑った前歯が一本欠けていて、それが尚更に気に障った。
「なあに、誰彼かまわず声をかけてるんじゃないよ。兄さんだから声をかけたんだ」
そんないい加減な事を言いつつも、私の腕を離すつもりは無いらしい。
客引きの彼はぐいぐいと私を強引に引っ張った。
華やかな表通りから、2つ路地を入った所。
ひっそりとその館は建っていた。
薄暗い路地の中、薄ぼんやりと座敷牢を思わせる格子の向こう。
幾つもの細い手が私の濡れた袖を引いた。
戸惑いつつ、客引きを咎めようと振り向くと、やはり欠けた前歯で彼はにたりと笑う。
その隙間から見える、真っ黒い口腔が不気味に思えた。
一夜の相手を手に入れようと、その場にいる男娼は必死だ。
そんな中。
ひとりの男娼が格子の側に寄るでもなく、ただ壁際に座っている。
男など相手にした事はないが、私は何故がひどく興味をひかれた。
目が合えば、微笑むでもなくゆっくりと瞬きをして彼は視線を虚ろに流す。
どうあっても私を離しそうにない客引きに、どうせならばとその男娼がいいと告げる。
何故か彼はそれまでの下卑た笑いを納め、一瞬真顔になった。
それでも今夜の稼ぎをふいには出来ないのだろう。
私の気が変わらないうちに、と男娼に顎で合図を送り、それから私の背中をぐいぐいと小突くように押して建物の中へと入れた。
これが客に対する扱いだろうか。
そう思ったが、私など客扱いする値打ちもなかろうと思いなおし、ふと愉快な気分になった。
「いらっしゃいませ」
金を支払い濡れた上着を店の者に預けていると、この館の主だという男が現れ慇懃に頭を下げてくる。
ひどく感情に乏しい表情だ。
まあ、私も他人の事を言えた義理ではないのだが。
「もう少し、躾の行き届いた者もご用意できますが……」
それはどういう意味だろうか、と考えてみたが。
それもどうでもいい話だ。
別にここで遊ぶ気などないのだから。
彼でいい、と短く答えると、主は薄く笑った。
「では、お部屋にご案内を」
建物は外から見た印象とはちがい、内側は落ち着いた装飾になっている。
極普通の宿と言ってもおかしくはない。
主に代わり、長身の、これまた愛想の欠片もない青年が私を案内してくれた。
大きな階段を上り、板張りの長い廊下を歩いていく。
こんな場所でばったりと知人にでも会ってしまったら、皆どんな顔をするのだろう。
そんな事を考えて、私はまた少し愉快になった。
「こちらへ」
一瞬、能面が喋ったのかと思うほど、振り向いたその青年は生気に乏しい。
だが、私は確かに彼から濃厚な血のにおいを嗅ぎ取った。
彼の生業は単にここで働く事だけではなさそうだ。
10畳ほどの広さがある部屋に入ると、背後で静かに襖が閉ざされた。
けばけばしい赤い布団が敷かれていて、そこだけはそれらしいのだな、と笑えてくる。
こんな布団で今夜安眠できるものだろうか。
自覚していなかった疲労がじわりと身体に圧し掛かる。
かたん、と小さな物音がして、私が案内された入口とは別の場所から彼が現れた。
下で見たとおり、華奢な身体だった。
黒い髪と同じくらいに黒い瞳。
薄く化粧を施しているのだろうが、元からの肌は白く。
唇は綺麗な赤だった。
扇情的な緋色の襦袢にも、嫌悪感は抱かなかった。
彼にならこういう衣服も似合うのかも知れない。
風呂を使いたいと告げると、奥の扉を示される。
もしかして口がきけないのかと思い、私はその男娼に名を尋ねた。
少々の間を置いて、その赤い唇は小さく答えた。
柊、と。
風呂には檜の香りが濃く立ち込めていた。
温かい湯を使い、湯船に身体を沈めているうちに、うとうとと眠ってしまいたくなる。
これだけ疲れていれば、たとえ相手が女でも抱く気にもなるまい。
身体に残った水滴を拭きながら、ひいらぎと名乗った彼の事を思う。
一体どんな事情があって、こんな場所にいるのだろう。
何となくそれを聞いてみたいような気になる。
私が他人にこんな興味を抱くのは珍しい事だった。
置かれていた新しい着物に袖を通し、帯を締める。
部屋に戻ると、柊はじっとこちらを見つめていた。
その手元の盆には酒が用意されていて、私はありがたくそれをいただく事にする。
空腹ではなかったが、喉は渇いていた。
杯を渡される瞬間、仄かに柊の髪からくちなしのにおいがする。
部屋の中に焚かれた香とは相性の良いにおいだ。
酌をしようとする柊の手首に薄く縄の痕が残っている事に、私は気付かない振りをした。
ただ、赤く擦れたそれが痛そうで。
ほんの少し、こちらの胸も痛んだ。
もちろんそんな感情を持ち合わせてはいないので、それは私の気のせいであったが。
いつまで経っても自分を抱く素振りを見せない私を、柊は怪訝そうに見つめる。
私が柊を抱かねば後から誰かに折檻でもされるのかと思い、彼に問うてみたが、そんな事はないと首を振る。
私はごろりと例の布団に寝転がった。
何もしなくてもいいから、おいで。
私はひどく眠いのだ。
そう言うと、柊は明らかに戸惑いを見せた。
微かに見せた、人間らしい表情だった。
それはそうだろう。
これでは全く商売にならないではないか。
おいで。
まるで懐かない野良猫を相手にしているような気分だ。
手を差し出すと、柊は怖じたように身を引いた。
何もしないから、おいで。
よくよく考えるまでもなく、客である私が何故こんな事を言っているのだ。
おまけに私は猫が嫌いときている。
笑う私に、少し警戒心を解いたのだろうか。
柊はそっと、私の手に己の右手の指先を触れさせた。
冷たい冷たい指先だった。
いつかまた会いに来てもいいか、と問うと。
柊は悲しげに首を横に振った。
理由は分からなかった。
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