【1】
どうして書けないんだ。
父であった人の叫び声が聞こえた気がして、スザクは飛び起きた。
いつの間にやら、寝ていたらしい。
手には、愛用の絵筆が握られたままになっていた。
そうだ、自分は絵を書いていたんだ。
思い至って、寝そべっていた冷たい床から離れるように腰をあげた。
白い、白いキャンバス。
白で塗ったわけではない。
まだ、何も描いていないだけだ。
ぎゅっと絵筆を握ると、木製のそれはスザクの手の中で軋む声をあげた。
「・・・ダメだ。頭冷やそう」
握っていた絵筆をそっと棚の上に置き、外に出る。
玄関から見たキャンバスは、当たり前だがやはり白いままだった。
+ + + + +
セピア色の
エスキース
+ + + + +
思うように絵が書けなくなったのは、いつからだろう。
少なくても、つい最近のことではなかった。
もうかれこれ1年になるのだろうか。
1年。1年あのキャンバスに筆をつけたことがない。
人によっては、たかが1年というだろうが、スザクにとってはもう1年だ。
今まで、こんなに長い間絵から離れたことはなかった。
何故描けなくなったのか。
何時描けなくなったのか。
理由はわかっている。
父が、死んでからだ。
スザクが絵を始めたのは、有名な画家である父を尊敬していたからだ。
父の絵は、いつも暖かく優しかった。
飽きもせず、時間が空いては、母と自分の姿を描く父が、スザクは大好きだった。
だから自分もいつか、父のように暖かく優しい絵を描けるようになりたいと思っていた。
・・・けれど、母が死んで父は変わってしまった。
スザクの手に優しく絵筆を握らせてくれた父はどこにも居なくなり、父の言ったとおりに絵を描けないスザクを殴っては、どうして描けないんだと罵るようになった。
スザクは父が嫌いになり、家を飛び出した。
それからは、親戚の家に世話になっていたのだが、この春、芸大に進学したのをきっかけに寮に入ることにした。
家を出てからそれまで、スザクは父に連絡を一切取らなかったし、父からの連絡もなかった。
――父が死んだのは、スザクが大学に入って2週間後のことだった。
それから、スザクは日に日に思い通りの絵が描けなくなっていき、ついには絵を描きたい、と思えなくなってしまった。
それまで描いていた空も、街も、動物も。
何もかもが、色あせて。
白いキャンバスは、いつまで経っても色に染まらなくなった。
「こんなんじゃ、ダメだ・・・」
近いうちに、大きな絵画コンクールが控えている。
奨学生として大学に入ったスザクは、結果を残さなければ大学に居続けることが出来ない。
絵は、描きたい。
描きたいのに、描けない。
どうしようもないこのもどかしさが、嫌だった。
家を出て左に曲がったところに、小さな公園がある。
そして公園を少し過ぎ、木に隠れた奥まったところには、石で出来た階段があった。
スザクは、その階段を踏みしめるようにゆっくりのぼっていく。
階段をのぼれば、高台があり、高台にのぼると夕暮れに染まる街が一望出来る。
色あせてしまったように感じる世界の中で、街も、人も、全てがたった一つの色に染まって見える景色は、いつもスザクをほんの少しだけ安心させてくれた。
だから、スザクはその場所が好きで、こういったどうしようもない気分の時には、必ずいつも高台に向かった。
高台には人もめったに来ないから、暗くなるまでゆっくり自分と向き合う時間が持てる。
――なのに。
今日はその場所に先客が居た。しかも。
(黒、色・・・?)
全てが夕日色に染まる世界の中で、彼だけが違う色を持ちそこに立っている。
黒色。
光を返す黒い髪。
この近所では見ない、黒の学生服。
線は細いが、制服を見るところ男、そしてどうやら年下のようだ。
それにしては、どこか妙に大人びた後姿だった。
「誰・・・?」
夕日の中、凛とのびた背筋に向かって、思わず声をかける。
すると、少年はゆっくりとスザクを振り返った。
――その瞬間。
芸術家として陳腐な表現ではあるが、スザクはまさに雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
黒の中に輝く、紫色の瞳。
宝石のように美しいそれが、スザクをじっと見つめている。
夕日に染まった肌は、それでも元の白さを残すかのように目前の世界の何よりも明るい色をしていた。
とても、とても綺麗だった。
スザクが今までの人生で見た中でも、一等。
何かと比較することこそ、失礼だという程に。
綺麗で、綺麗で、綺麗で。
本能的に、ただひたすら「描きたい」と思ってしまった。
「君・・・!」
描きたい、と。
こんなにも描きたいと思えたのは、とてつもなく久しぶりで。
スザクは、血が沸騰するような興奮を覚えつつ、なんとかしないとと本能のまま口を開いた。
「僕のモノになって・・・!!」
――次の瞬間、スザクは鈍器で殴られたような強い衝撃を顔に受け・・・意識を失った。
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