【3】

――紙の上の彼の姿が、段々と形になってきた頃。
スザクは何かが違う気がして手を止めた。

長く絵を描いていなかったせいだろうか。
それとも、やはり彼が被写体であってもダメということなのだろうか。
描けている。久しぶりに、白で無くなった紙の上には、確かに彼の姿が描かれているはずなのに。
なのに、紙の上の彼の姿に「何かが違う」と思えてならなかった。

「・・・どうしたんですか?」

音が完全に止み、静まり返ったのを不審に思ったのだろう。声をかけられる。
数分振りに聞く声に、状況も忘れて高鳴る胸を叱咤した。

「――描けないんだ」
「それは・・・やっぱり俺じゃ駄目だってことですか?」
「そうじゃない!・・・と、思う」
「はっきりしませんね」
「描き方を・・・忘れてしまったのかもしれない」

俯くスザクに、少年は首を傾げた。

「描いてたじゃないですか。今さっきまで」
「そうなんだけど・・・でも、何か違うんだ」
「違う?」
「確かに書けてるんだ。――でも、前とは違う気がする。絵を描いている時の感覚も、描き上がって行く絵の感触も」
「だから、描き方を忘れてしまったかもしれない、と?」
「うん。――ごめん」
「謝らないでください。別に責めてるわけじゃないですから」

俺に、そんな権利もありませんし。
そう言いながら、少年が固定していた体勢を崩す。
そして、考えるように右手を唇に添えた。
本当に、何をしても絵になる少年だ。
けれど、スザクは描けない。
こんなにも良い被写体なのに。
こんなにも心は描くことを望んでいるのに。

「最後に描いた絵のこと、思い出せますか?」
「え?」
「最後に一番自信を持って描いたと言える絵のこと、思い出せますか?」

最後に、一番自信を持って描いたと言える絵。
言われて思い返してみる。
最後に描いた絵。それはきっと。

「桜・・・」
「桜?」

高校の時、中庭にあった桜だ。
この街に来る前――親戚の家に世話になる前に、旅立ち記念として描いた。
その後にもいくつか絵を描いたけれど、きっと一番自信を持って描いたと言える絵は、その桜だろう。
けれど、それが一体何だというのか。
スザクが首をかしげていると、少年は言った。

「なら、その桜を描いた時のことを思い出して描いてみるというのはどうでしょう。同じように描いてみれば、感覚も思い出せるんじゃないでしょうか」

思い出す、か。
確かにそうかもしれない。
とてもシンプルな方法ではあるが、今まで焦りばかりを感じていたスザクは、彼の言う様にゆっくりと時間をかけて過去を振り返ったことなどなかった。
過去には、碌な思い出が存在しないのも理由のひとつだろう。

「できる、かな」
「さあ」

苦笑する少年に、スザクも笑った。
曖昧な返事ではあったが、何の根拠もなく大丈夫だと言われるよりよっぽど嬉しかった。
期待されるのは嫌だったから。
期待されて、がっかりさせてしまうのは嫌だったから。

「結果に確証はありませんが、試してみなくちゃ結果は得られません」
「・・・うん、そうだね」

答えてから、瞼を閉じて深呼吸をした。
彼の言うとおりだ。
試してみなくては、望む結果など得られない。
動かない筆に戸惑うだけじゃ駄目なんだ。
動かない筆をがむしゃらに動かすだけじゃ駄目なんだ。
もっと、自然に。あの頃のように、描きたい。
それこそ、周りの全てを忘れるくらい没頭してしまいたい。

スザクは、瞼を開いて自分の手のひらを見つめた。
この手は、自分は・・・どうやってあの桜を描いただろう。


『今日から、君を描かせてもらうことにするね。宜しく』


挨拶。人か物かなんて関係なく、対等に向き合うための挨拶。
それから・・・名前があるものには、想いを込めて名前を呼んだ。

「あ、そうだ。名前を・・・呼んでた」
「名前?」
「うん。無いものには、自分で名前をつけてみたりして。描く時は必ず名前を呼んでた」

そうすると、愛着が湧いて被写体との距離も近づける気がしていたんだ・・・と、そう言ったところでスザクはとても大切なことに気付いた。
どうして今まで気付かなかったんだろう。

「・・・そういえば僕、君の名前・・・聞いてなかった?」

驚きの色をした緑の瞳に映る少年は、小さく笑って答えた。

「ルルーシュです」

モデルに名前を聞かない主義なのかと思ってました、と言ってルルーシュは、いたずらな顔をする。
スザクは首を振って、てっきり聞いたつもりで居た自分の間抜けさに苦笑するしかなかった。
描く以前の問題だ。こんなにも大切なことから忘れてしまっているなんて。
絵を描く相手であるかないかに関わらずとも、相手の名前を聞くことはとても大切なことだというのに。

(ルルーシュ、か)

舌の上で、密やかに転がす。
目の前の彼に似合った、綺麗な名前だと思った。

「あ!僕の名前は・・・」
「スザクさん、でしょう」

にこりと笑って名前を呼ばれる。
スザクは目をしばたかせてルルーシュを見た。

「どうして・・・」
「さっき、友達の方が呼んでましたし、ここに来るときもあなたの特徴を言ったら一発で名前が出てきました」
「そっか。枢木の名前は、無駄に有名だから」
「そうかもしれませんね。でも俺は名前なんて、人が人を呼ぶための一呼称でしかないと思います。特に家名なんて、自分で手に入れたものではないですから」

そう言ったルルーシュは、ここではないどこかを見ているようだった。
自分の名前が嫌いなスザク同様、彼も何か名前に思うところがあるのだろうか。

「それで」
「え?」
「思い出し療法の続きです」
「思い出し療法・・・これってそういう名前なの?」
「そんなわけないじゃないですか。適当に名づけただけですよ」
「・・・・・」
「――今、ネーミングセンスないなとか思いませんでした?」
「え゛」
「・・・やっぱり。いいんですよ、名前に意味なんて無いんですから」

少し不機嫌そうに、それでいて居心地が悪そうに顔を背けたルルーシュがなんだか可愛かった。
大人びた彼から、初めて年相応の部分が見えた気がする。
そのことを、なんだかとても嬉しく思っている自分が居た。

「・・・笑わないでください」
「ご、ごめっ、なんだか可愛くて」
「はっ!?」

素っ頓狂な声と共にスザクを見る目が大きく見開かれて、黒髪から見える白い耳は瞬く間に赤くなっていく。
形の良い唇は何か言葉を紡ごうとしたが、小さく震えるだけで声は発せられなかった。

「林檎みたいだ」
「う、うるさいっ!!」

敬語を忘れて思わず怒鳴る姿は、本当に可愛い。
スザクはまた、知らず綻んでいく口元に手を当てて小さく笑いを零した。
これ以上機嫌を損ねたくないとは思うが、笑いは簡単に止まってくれない。
案の定、ルルーシュは少し拗ねたような、怒ったような微妙な表情をしている。
しまった完全に機嫌を損ねた、とスザクは駆け寄るように慌ててルルーシュに近づく。
するとルルーシュは仏長面のまま言った。

「それから?」
「え?」
「さっきの!桜の話です。名前を呼んで、それからどうしたんですか?」
「あ、うん。それから・・・」

どうやら、名前の話は暗にこれで終わりだと言っているらしい。
よっぽど恥ずかしいのだろう。顔色は電灯の陰になって見えないが、耳は変わらず赤かった。
スザクもそこまで空気の読めない人間ではないから、それ以上は触れずに彼の質問に答えることにする。

名前を呼んで、それから。
それから・・・形を確認した。
桜の木の幹、葉、花。
造形を手のひらで辿って・・・。
形を感覚に刻みつけた。
自分の持つ五感全てを使うように、感覚に――。

「え・・・?」

無意識、だった。
遠い記憶の世界から、我に返った時やっと気付いた。
油絵の具の匂いが染み付いたスザクの手が・・・ルルーシュの白い頬を撫でていたことに。

「スザク、さん?」

戸惑いながら、スザクを見上げてくる紫の瞳。
――それに気付いた途端、かっと顔に血がのぼった。

「ご、ごめん・・・っ!!」

桜の木の姿を、一瞬にして彼に重ねてしまったのだ。
木の幹を辿るように、ルルーシュの白い頬を辿っていた。
混乱しながらも、視線ははだけた胸元へと揺らぐ。
膨らみなど間違っても存在しないはずなのに、何故だか息をつめてしまった自分に情けない気持ちになった。

「本当にごめん!!違うんだ、その・・・っ!!名前呼んでそれから、実際に触れて感覚を確かめてたなって、そう思って・・・!!」

そうしたら、本当に触れてしまっていたのだ。
いや触れてしまっていた、では許されない。
これが女の子相手だったら、訴えられてもしょうがないくらいのことをしてしまったのだから。

「ごめん!ごめんなさい!すみませんでした!!」
「そんなに謝らなくても」
「だってだってだって・・・!!」
「いいですよ、好きなだけ触ってくれても」
「そうだよね!やっぱり嫌だよね!!好きなだけ触ってくれてもいいって言われても仕方な――って、え?」

土下座する勢いで慌てて謝り倒していたスザクは、聞こえてきた言葉が理解できなくて首をかしげた。
ルルーシュはそんなスザクにもう一度、先と同じ言葉を告げる。


「だから・・・いいですよ。好きなだけ触ってくれても」



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